第45話 真空実験
決断に迷う余地はなかった。
あの存在を前にして、通常の戦闘は意味を持たない。攻撃は届かず、触れれば削られる。理解しなければ、ここで終わる。
「時間をくれ」
短く告げる。教師が一瞬だけこちらを見て、すぐに頷いた。「やれるのか」
「やる」それ以上の言葉は必要なかった。
次の瞬間、隊列が再び動く。
前衛が散開し、意図的に距離を詰める。攻撃は当たらない。だが、それでも構わない。重要なのは“向きを固定すること”だ。
ライバルが風を展開する。鋭い刃ではなく、あえて広がる流れ。吸引の方向に対して斜めにぶつけ、空気の収束を乱す。
完全に止めることはできない。だが、軸がぶれる。
そのわずかなズレが、時間を生む。
「今だ、やれ!」
声が飛ぶ。意識を切り替える。
周囲の状況を切り離し、自分の内側に集中する。
空気を“動かす”のではない。“減らす”。
粒子の密度を下げる。押し出す。流す。消す。
だが、ここは訓練場ではない。外部からの吸引がある。
流れに逆らえば、すべて持っていかれる。
「……違うな」
一度、手を止める。抵抗ではなく、利用する。
吸引の周期を読む。引かれる瞬間に合わせて、流れを“乗せる”。
消すのではない。抜く。
「……そこだ」
呼吸の谷。吸引が最も弱まる瞬間。そのタイミングに合わせ、魔力を一点へ集中させる。空間の密度が落ちる。
目に見えないが、確実に存在が薄くなる。小さな“空白”が生まれる。
成立した。だが「っ!」
次の瞬間、崩れる。外部の吸引に引きずられ、真空が一気に広がる。
制御が外れる。範囲が拡大する。
「下がれ!」
叫ぶ間もなく、空気が一方向へ流れ始める。
味方の装備が引かれる。地面の砂が巻き上がる。視界が歪む。
訓練場での失敗が、より危険な形で再現される。
「止めろ!」
誰かが叫ぶ。だが止まらない。流れはすでに“繋がっている”。
外の吸引と、こちらの真空が干渉し、共鳴している。
このままでは、制御不能になる。
「……いや」
そこで、逆に理解する。止めようとしているから、暴れる。
流れを断ち切ろうとしているから、歪む。
なら「流す」魔力の方向を変える。
中心へ向かう吸引に対して、横ではなく、同方向に力を重ねる。
逆らわない。導く。真空の形が変わる。
広がっていた領域が、一本の流れに収束する。不安定だった空間が、細く、鋭く整えられていく。その瞬間、外部の吸引と干渉が外れる。
「……いける」
感触が変わる。これは“消失”ではない。“形”だ。
だが、まだ足りない。強度が弱い。維持ができない。わずか数秒で崩れる。
「まだか!」
前方から声が飛ぶ。振り向く。
前衛が押されている。吸引の周期が早くなっている。
“それ”が、こちらの変化を認識し始めている。
呼吸が荒くなる。空気が奪われる。集中が揺らぐ。
「……くそ」
舌打ちが漏れる。もう一度、構築する。同じ手順ではダメだ。
さっきの形は維持できない。原因は明確だ。流れに乗せただけでは、“刃”にならない。ただの通路だ。
「……圧をかけるか」
独り言のように呟く。流れを細くする。さらに絞る。空間の断面を圧縮する。
一方向へではなく、周囲から押し込む。
真空を“閉じる”。負荷が跳ね上がる。魔力が一気に削れる。
だが、その代わりに形が変わる。
細い。鋭い。持続は短いが、明確な“輪郭”を持つ。
「……これなら」
試しに前方へ向ける。完全には届かない。
だが、吸引層の外側でわずかに反応がある。
空間の歪みが一瞬だけ揺らぐ。
「……触れた」
確信する。完全に無効ではない。条件を満たせば、干渉できる。その瞬間、強い吸引が来る。今度は狙われている。
こちらに向けて、明確に。
「っ、来るぞ!」
体が引かれる。真空の形が崩れかける。維持が追いつかない。
「……時間切れか」
歯を食いしばる。だが、ここで無理に維持すれば、また暴走する。
一度、解放する。真空が消える。空気が戻る。
衝撃。だが、今度は崩れない。制御は保たれている。
荒い呼吸を整える。肺に空気が戻る感覚が、妙に重い。だが、思考ははっきりしていた。
「……形は見えた」
リナが肩で息をしながら言う。「今の……当たってた?」
「完全じゃない」
首を振る。
「でも、無効じゃない」
それがすべてだ。外からは届かない。だが、条件を揃えれば干渉できる。
「あと一歩だ」
視線を中心へ向ける。見えない存在。だが、確かに“揺れた”。
「……次で決める」
小さく呟く。もう、迷いはなかった。




