第三話「逢引」3
第3話「逢引」は6分割で更新していきます。これは3つ目です。
「着いたぞ。」
馬車が止まると、凌偉はそう言って先に降り、
自然な動きで春燕の手を取った。
引かれるままに歩いていくと――
視界に大きな扁額が現れる。
「琳安堂」
太い筆致で堂々と掲げられた店名。
二階建ての立派な薬局が構えていた。
隣には診療所があるようだ。
街の中心から少し離れている分、風が通り、
静けさが保たれている。
「ここは……!」
春燕の胸が跳ねる。声が自然と漏れた。
店に入ると、生薬の香りが包み込む。
壁一面に並ぶ棚。陶器やガラス瓶が整然と並び、
《葛根》《黄耆》《大棗》――
生薬の名が細筆できれいに書かれた札が付いている。
大きな作業台では、薬家たちが手を止めることなく生薬を秤にかけ、刻み、包み、調える。
葉が割れるかすかな音。
薬匙が瓶に触れる軽い金属音が、静かに響く。
「信じられない!! こんなに! 生薬が沢山!!」
春燕は声を抑えきれなかった。
いつもより瞳がずっと澄んでいる。
頬までほんのりと色づき、息さえ弾んでいる。
母以外の“薬家”を目にするのは、初めてだった。
「すごい……!! 本当に……信じられない!」
客の邪魔にならないようにと気遣いながらも、
棚、作業台、道具。
ひとつひとつを確かめるように見つめ、また感嘆の声をあげる。
そのとき、店の奥から、落ち着いた声がした。
「これはこれは、凌偉坊ちゃん。お久しぶりです」
柔らかな物腰の老人が現れる。
その目が春燕に向けられると、穏やかな笑みが深まった。
「春燕様。お初にお目にかかります。琳家の御用医家、周景修と申します」
御用医家……琳家に代々仕えるお医者様!
景修の言葉は柔らかく、それだけで春燕の緊張は不思議と和らいだ。
「胡春燕と申します。景修様。お会いできて嬉しいです」
「先日の景元の妻の件、素晴らしい対応でした。
橋の事故の際の手当も……実に素晴らしかった」
それは、思いがけない言葉だった。
褒められるなど、想像すらしていないことだった。
「春燕様が手当で使われた薬剤は、どちらで買われた物でしょう?」
「あれは、私が調合しました」
「ふむ……素晴らしい。
春燕様は薬学を、どちらで学ばれたのでしょう?」
「母から学びました」
その瞬間、景修の目が優しく和らぐ。
「左様でしたか。お母様も、さぞかし素晴らしい薬家なのでしょうな」
その一言は、春燕の胸の奥にまっすぐ届いた。
母の名と努力を、ちゃんと肯定してくれる人がいるだなんて……。
「ありがとうございます、景修様……。私……言葉もございません」
静かに、深い喜びが春燕の胸に満ちた。
後ろで見守っていた雪麗の胸にも、同じ想いが満ちる。
「お時間がよろしければ、ぜひ薬局の中をご覧ください。
二階にも生薬、調合室がございます」
春燕は思わず振り向き、凌偉を見た。
凌偉は、ふっと微笑む。
「好きなだけ見るといい」
その言葉に、春燕は一気に花開いたように明るい笑顔になった。
薬家たちの説明に耳を傾けては、また目を輝かせる。
凌偉は、少し離れた場所から、その横顔を静かに見ていた。
「あんなにお顔を輝かせて。
本当に薬がお好きなのでしょうね」
景修が、そっと言う。
「そうですね。連れてきて良かった」
その声は、柔らかく、深かった。
「お父上達が亡くなられてから、ずっと表情が沈んでおられたが……
随分と穏やかになられましたな」
景修は、ゆっくりと見守るように言った。
「凌偉坊ちゃんに、良い方が来られましたなぁ」
その言葉に、凌偉はわずかに微笑んだ。
*
「景修様! ありがとうございました!」
両腕いっぱいに生薬を抱え、春燕が駆け寄ってくる。
「いえいえ。春燕様。
またいつでも来てくだされ」
「はい! 必ず」
春燕は、景修の手を両手で包むように握った。
二人とも、嬉しそうに笑った。
そこに、低い声が落ちる。
「春燕」
凌偉がそっと、春燕の手を景修の手から外した。
「そんなに長く触れないでくれ」
淡々とした口調――だが、どこか拗ねている。
「ほっほっほ! これはこれは! 凌偉坊ちゃん!」
景修は愉快そうに笑った。
「行くぞ」
凌偉は照れくささを押し隠すように景修へ軽く一礼し、薬局をあとにする。
春燕は抱えた生薬を胸に、嬉しさのあまり足取りが弾んでいた。
その横に、そっと歩幅を合わせる凌偉がいた。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
見守っていただけたら嬉しいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




