第三話「逢引」1
第3話「逢引」は6分割で更新していきます。これは1つ目です。
本邸の会議場には、香の煙が静かに立ちのぼっていた。
昼の商談がすべて終わり、帳簿が片付けられた後。
凌偉は席に着き、向かい合う夕月と紅花を見た。
二人は春燕の世話係。
衣食住から健康まで、細かく報告を受けるのがいつもの習わしだった。
けれど――
今日の会議は、少し様子が違う。
「初めての月夜の舟遊びで、初!逢引の約束!!
坊ちゃん!!いいじゃないですか!」
夕月は腕を組み、くうーっと唸った。
頬がにやけている。
「いいと思います」
紅花も笑顔を見せた。
凌偉は、思わず視線をそらした。
あの夜――
遠慮する春燕に、特に考えもなく「一緒に行こう」と言ってしまった。
まさか、それが“逢引”と呼ばれるものだとは、
その時は思ってもいなかった。
(そうか……逢引、なのか……)
「相手はあの春燕様ですからね〜。やっぱり坊ちゃんの方からグイグイいかないと」
夕月が笑いながら言う。
「確かに。春燕様から誘うなんて、絶対なさそう」
紅花も肩をすくめた。
「それで……なんだが」
凌偉は軽く咳払いをして、真剣な表情に変わる。
「二人に折り入って相談がある」
夕月と紅花が顔を見合わせる。
「年頃の娘が喜ぶ場所や、欲しそうな物がどういうものか教えてほしい」
次の瞬間、二人は――固まった。
……え?
あの若様が? 坊ちゃんが?
逢引の相談を!?
二人はポカンとした後、感動で頬をゆるませた。
「坊ちゃん……成長しましたねぇ……!」
夕月は胸に手を当てて、うるっとしている。
凌偉と春燕――
その二人の関係は、今や屋敷の誰もが温かく見守っていた。
春燕は今では、屋敷中の使用人たちにとって
“恩人”のような存在だ。
だからこそ、皆が願っている。
凌偉様のお相手は、
春燕様以外にあり得ない、と。
「任せてくださいっ!」
夕月は張り切って身を乗り出す。
「定番は勾欄(都市の大通りにある舞台付きの娯楽施設)で、
今流行りの雑劇(演劇)を観てから、人気の茶館で食事!
おすすめは人気の聚芳茶坊か鳴琴茶肆です!
雰囲気も良くて、逢引にピッタリですよ〜!
錦霞居は甘味が絶品なんですけどぉ〜、
女性客が多いから坊ちゃんが行くと大変なことになりそうなので、やめときましょう!
瓦子(劇場、語り物の舞台、茶館、売店、遊戯場などが
一体化した複合娯楽施設)なら一日遊べますけど、
坊ちゃんが行くと女の子たちに囲まれちゃいそうだし〜!」
どこに行こう〜!と、夕月は興奮しっぱなしだ。
「夕月が行くわけじゃないでしょ」
紅花が夕月の肩を軽く叩く。
「春燕様なら、どこにお連れしても喜ばれると思いますが……ただ」
紅花は少し考え込むように言った。
「ただ?」凌偉が首を傾げる。
「春燕様が本当に行きたい場所に、お連れしたほうがよろしいかと」
「まぁ、それはそうですね」夕月がうなずく。
「春燕様って本当に……我慢してるわけでもないんですけど、自分への“欲”がないんですよね〜」
「確かにな」凌偉も頷いた。
「この前の宴の服ですら、洗って返そうとしていましたから」
紅花が苦笑する。
「は?」凌偉の眉が、ぴくりと動く。
紅花と夕月は顔を見合わせた。
――どうやら本気で知らないらしい。
「嬌様が用意された豪華な衣装を、“貸してくれたもの”と
思い込まれてたんです。自分で洗って返そうとして……
洗い場の者が全員で止めました」
紅花が話す。
凌偉は言葉を失った。
(あの服を……返そうとしたのか?)
自分に与えられたものだとは、
少しも思わずに……。
「坊ちゃん。春燕様のこと、本当に大切にしてあげてくださいね」
夕月が伏せ目がちに呟く。
その言葉が、凌偉にゆっくりと響く。
春燕が好きなものを、与えたい。
春燕の好きな場所に、連れていきたい。
――彼女の“望むもの”を、
“願うこと”を、与えてあげたい。
凌偉は考えた。
(春燕が、本当に喜ぶ場所……)
脳裏に、ふっと浮かぶ光景があった。
「そうか」
凌偉は小さく頷くと、翌日の仕事を再調整するため、
すぐに使用人を呼び出す。
――初めての逢引を、必ず成功させるために。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
見守っていただけたら嬉しいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




