第二話「月夜の舟遊び」2
第2話「月夜の舟遊び」は3分割で更新していきます。これは2つ目です。
舟の上に、月の光が静かに落ちている。
水面はゆるやかに波を描き、夜風が二人の間を通り抜けていく。
豆豆が春燕の膝の上に寄り添って丸くなる。
「春燕」
思わず凌偉は名前を呼んでいた。
春燕は目を瞬かせ、顔を上げる。
名前を呼ばれた――。
そのことに気づいた瞬間、頬がほんのりと赤く染まる。
嬉しそうで、恥ずかしそうで、どうしていいかわからないような笑顔を浮かべた。
凌偉は、動きを止めた。
春燕が見せたその笑顔に、息を呑む。
「嬉しいです」
春燕が、うつむきながら小さく呟く。
「?」
「琳家では皆様から、私の名前を呼んでいただけるのが……すごく嬉しいです」
豆豆を撫でながら言う春燕の声は、穏やかで、どこか切なさを含んでいた。
“琳家では”――。
それでは、胡家では?
家族にさえ、名前を呼ばれなかったのだろうか。
凌偉は、あえて聞かなかった。
胡家のことを……春燕から聞かない方がいいと思ったからだ。
内情はよくわからないが、
今はもう、琳家の人間みたいなものなのだから。
「ここでの暮らしには慣れたか?」
「はい。お屋敷の仕事は毎日楽しいです」
「必要なものは揃っているか?」
「はい」
「身の回りのもので足りないものはないか?」
「十分足りております」
春燕はそう答えたが、凌偉は知っていた。
本邸の使用人たちの話では、春燕は
“自分のために何かを求めたことが一度もない”という。
遠慮しているのでも、物欲がないのでもない。
彼女にとって“求めないこと”が、当たり前だったのではないか?
琳凌偉の婚約者であれば、
言えば何だって手に入るというのに――。
「他に欲しいものは?」
凌偉は、もどかしさを隠さずに尋ねた。
「欲しいもの……。あの……手荒れ用の軟膏を作りたいのですが、材料が足りなくて……。安く買える場所があれば教えていただきたいのですが……」
「軟膏の……材料……?」
凌偉は、思わず聞き返す。
もっと豪奢なもの――
衣や装飾品を求められると思っていたのに、出てきたのは“軟膏”。
「はい。水仕事は手が荒れやすいので、お屋敷の皆様の分を作りたいのです」
屋敷のみんなの分――。
この子は本当に、自分のことを後回しにする。
凌偉は半ば呆れ、
そして同時に、深く尊敬していた。
「手荒れなど考えた事なかったな。洗濯や炊事でか……確かにな」
「お役に立てるのでしたらお作りします」
春燕は、月光を映すような柔らかな笑みを浮かべた。
「わかった。必要なものは好きな時に買いに行けばいい。使いを出してもいい」
「お屋敷の外に……出てもいいのですか?」
春燕は驚いたように言う。
以前、倉庫番の景元のために特別に外出したことはあるが、
今回は完全に自分のための用事だ。
「当たり前だ。前にも言ったが街に行くのにオレの許可はいらない」
凌偉は、少しだけ笑みを浮かべて続けた。
「街で欲しいものがあったら、オレの名前を出せばいい。街にあるものは大体手に入る」
春燕は、その言葉の意味を一瞬理解できずに固まった。
“欲しいものは凌偉の名で買える”――。
信じられない、というように顔を上げる。
「そんな……! 私のような者にそのようなこと!
屋敷の外に出るのも……控えます。“胡家と同じように”過ごしますので……」
春燕は慌てて言った。
また“胡家”か。
凌偉は眉を寄せ、息をひとつ吐いた。
「それなら……オレと一緒ならいいか?」
「凌偉様と?」
春燕の瞳が驚きに見開かれる。
「仕事が忙しい時は行けないが……。春燕が一緒なら仕事以外に屋敷を出る理由になる。それならいいか?」
「よろしいのですか?」
「構わない」
凌偉は、当たり前のように言った。
夜風が二人の間をすり抜け、
豆豆の小さな鈴がかすかに鳴った。
「はい……わかりました」
春燕は、はにかみながら小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、
凌偉の胸にあたたかいものが満ちていった。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
見守っていただけたら嬉しいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




