第二話「月夜の舟遊び」1
第2話「月夜の舟遊び」は3分割で更新していきます。これは1つ目です。
日が沈みはじめると、昼間までの喧騒が嘘のように消えていった。
取引相手や客人たちは次々に帰っていき、琳家の屋敷は静けさを取り戻す。
庭園には、灯籠の淡い光がいくつも揺れている。
草の影からは虫の音が響き、夜の涼しさが肌をかすめた。
空はすっかり闇に包まれ、満ちた月が白く庭を照らしている。
庭園の中央、大きな池のほとりに一艘の小舟が浮かんでいた。
水面には月が映り、ゆるやかに揺れている。
「足元に気をつけて。ゆっくりこっちへ」
凌偉が先に舟に乗り、手を差し伸べた。
春燕は裾を少し持ち上げながら、一歩ずつ慎重に進む。
水面の揺れが足元に伝わるたびに、心臓が少し跳ねる。
暗闇と、水の不安定な揺れ。
思わず息をのんだ春燕の手を、凌偉の掌がそっと包み込む。
「大丈夫」
低く、優しい声。
そのまま彼は春燕の小さな身体を支えて、舟に乗せた。
その時だった。
草の陰から「ピョン!」と何かが飛び出した。
「まあ! 豆豆! まだ起きていたの?」
春燕の膝の上に乗ったのは、凌偉から贈られた子猫・豆豆だった。
春燕が優しく抱きしめると、豆豆は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
その音が、夜の静けさの中に小さく溶けていく。
「豆豆。落ちるなよ」
凌偉は小さくため息をつきながらも、どこか嬉しそうに舟を押し出した。
水面を滑るように、舟はゆっくりと進む。
波が小さくきらめき、二人を乗せた舟は池の中央で静かに止まった。
月と星の光が水面に映りこみ、揺れる度にきらきらと形を変える。
「綺麗……」
春燕は目を見開き、思わず息を呑んだ。
「本当だな」
凌偉は頷いたが、視線は月ではなく春燕に向いていた。
月の光が春燕の髪に淡く降り注ぎ、瞳を透かしている。
その横顔が、あまりにも静かで、美しかった。
——誰かを見て、こんなふうに“綺麗だ”と思うなんて初めてだ。
あの雨の日から。
彼の中で春燕は、確かに特別な存在になっていた。
燃えるような激情ではない。
ただ、優しく心を包み込むような温かさ。
それが、凌偉の胸の奥をじんわりと満たしていく。
この気持ちに、名前があることを凌偉は知っていた。
だが、それを自分が抱く日が来るなど——想像すらしていなかった。
幼い頃から商いに没頭し、父の背中を追いかけ続けた。
十六の時、事故で両親を亡くしてからは、心と感情を閉ざし、償うように働いてきた。
結婚も家のための義務。
愛など、物語の中のものだと信じて疑わなかった。
けれど今、目の前にいる小さな少女に――心が揺れている。
その事実が、戸惑いよりも温かく感じられることに気づいていた。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
見守っていただけたら嬉しいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




