第一話「夏の宴」3
第一話「夏の宴」は5分割で更新していきます。これは3つ目です。
承光楼——商人や豪族が集うこの楼では、
朝からざわめきが絶えなかった。
琳家の当主が、ようやく心を取り戻したという噂が
広まっていたからだ。
「今まで取り入る隙なんてなかったが、これでようやく…」
「若い当主だ。油断すれば一気にこちらのものにできるかもしれん。」
「いや、いっそ……あの婚約者を蹴落とせれば——。」
酒を注ぐ手を止めて、誰もが囁き合う。
狙いは一つ。
——春燕という娘を引きずり下ろし、自分の娘や
親族を琳家に嫁がせること。
そんな思惑が渦を巻く中、ざわりと声が上がった。
人々の視線が、一斉に入口へと向かう。
そこに現れたのは、凌偉と——その手を引かれた一人の少女。
背はまだ小さい。婚約ができる年齢なら十五ほどか。
あどけなさの残る顔立ちだが、その瞳には
確かな強さが宿っていた。
「おい…あれは……!」
息をのむ声がいくつも重なる。
髪には嬌の牡丹と蓮子の簪。
腰には恭信の佩玉。
それらは琳家の二人の重鎮の絶対的な証——
そして今、その二つを同時に身につけているのは、
凌偉に手を引かれた少女、春燕だった。
承光楼の空気が一瞬で張り詰める。
彼女はゆっくりと歩を進め、静かな気品を纏っていた。
誰もが悟る。
——これは牽制だ。
琳家がこの婚約者を、公に認めた証。
「牽制が凄いな〜!」
後ろを歩く愁飛が、にこにこと笑う。
「牽制?」隣を歩く雪麗が首を傾げる。
「はは。この街で、恭信様と嬌様の両方に
認められてる娘なんていないよ。見て、みんなビビってる。」
愁飛は軽口を叩きながらも、目は周囲を警戒していた。
「そんなに凄いことなのですか?」
雪麗が少し戸惑うように尋ねる。
「そりゃそうさ。あの簪と佩玉は、嬌様と恭信様そのもの。
つまり春燕は、ただの婚約者じゃない。琳家そのものだ。
春燕に手を出すってことは——琳家を敵に
回すのと同じ。この街で商いはもうできないね。」
「そうなのですね……。」
雪麗は息を呑んだ。
——お嬢様はあの日、凌偉様の心を救った。
お嬢様にとっては何気ないことでも、琳家に
とっては奇跡だったのだ。
その想いを噛みしめながら、雪麗は前を歩く
春燕を誇らしげに見つめた。
朝の光が差し込み、春燕の衣が淡く輝く。
なんて美しいのだろう…。
その姿は雪麗にとっても希望そのものだった。
「雪麗は大丈夫?」
愁飛が小声で尋ねる。
「君も、けっこう見られてるけど。」
「……大丈夫です。」
雪麗はそっと答えた。
自分にも視線が集まっているのはわかる。
けれど——私は春燕様の侍女。
お嬢様の顔に泥を塗るわけにはいかない。
堂々としていなくては。
そんな雪麗の前を、愁飛がさりげなく、
かばうように歩いていた。
その仕草に、雪麗の胸の奥が少しだけ温かくなった。
「水月鏡花」の更新は【週3日、月・水・金:21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ
近づいていく時間を、
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