第一話「夏の宴」1
第二章第一話「夏の宴」は5分割で更新していきます。これは1つ目です。
―梅雨が明けた。
田に張られた水が陽を映し、風にそよぐ稲の苗が青々と揺れる。
水田の整備と夏作の播種(種まき)が始まり、
季節はゆるやかに夏へと移ろっていく。
――朝八時。
街の門が開く音が、遠くで響いた。
その瞬間、ざわめきが街中に広がり、一日の鼓動が動き出す。
琳家の商いも、その合図を皮切りに始まった。
琳家を象徴する楼閣――承光楼。
その中では取引相手や客が行き交い、至るところで交渉や
駆け引きの声が飛び交っていた。
帳簿を抱えて走る者、品物を運ぶ者、商談に笑みを浮かべる者。
そのどれもが活気に満ち、まるでこの楼そのものが呼吸しているかのようだった。
そんな喧騒の中――
黒地に金糸の見事な刺繍が施された上衣を翻し、
まっすぐ歩く一人の青年の姿があった。
琳家の若き当主、琳凌偉だ。
整った顔立ちは人の目を惹き、歩くたびに揺れる黒髪は
朝の光を受けて艶やかに輝く。
その瞳は深く澄んだ青。
静かな湖面を思わせる色を宿していた。
立ち姿は凛として、彼の歩く道に自然と人の波が開く。
「凌偉様!」
取引客のひとりが彼を見つけ、慌てて駆け寄る。
凌偉は立ち止まり、柔らかく口を開いた。
「博洋殿。お久しぶりです。今年の作物の出来はいかがですか?」
その声は落ち着いていて、よく通る。
博洋は凌偉の柔らかな声に、少し驚いたように顔を上げた。
「おかげさまで順調です。琳家のご支援のおかげで、
ようやく収穫の見通しが立ちました。」
「それは良かった。村の方々にも、収穫を楽しみに
しているとお伝えください。」
凌偉はそう言って、ふっと微笑んだ。
その笑みは穏やかで、どこか温かかった。
再び歩き出す彼の背を見送りながら、博洋は呆然と
立ち尽くす。
――あの凌偉様が、笑った。
両親を事故で亡くして以来、心を閉ざし、感情を
失ったとまで言われた男が。
氷のように冷たいと評された彼が――。
「……噂は本当だったのか。」
誰かが、かすかに呟いた。
今や街では誰もが噂している。
――琳凌偉に、再び笑顔を取り戻させた少女が、
この屋敷にいるのだと。
*
朝日が昇り、琳家の本邸が柔らかな光に包まれていた。
白壁に陽が反射し、瓦の上を雀がかすめるように飛んでいく。
「春燕様〜!!」
廊下を駆け抜ける二つの影。夕月と紅花だ。
彼女たちは本邸の中を右へ左へ走り回り、
洗い場で洗濯をしている使用人たちに声をかけた。
「ねえ、誰か春燕様見なかった?」
夕月が息を切らせながら尋ねる。
「春燕様なら、畑の方へ行かれたけど。」
「えぇー! またぁ?」夕月が思わず天を仰ぐ。
「目を離すとすぐこれだ。」紅花が肩をすくめた。
琳家本邸の裏手には広い畑がある。
本邸の厨房から裏門を抜けると、そこに小川のせせらぎとともに、
色とりどりの作物が並んでいた。
そして、まさにその真ん中で——。
凌偉の婚約者が、しゃがみ込んでいた。
夕月と紅花は同時に息をのむ。
泥の中に立っていた春燕が、こちらに気づいて笑顔を向ける。
「夕月! 紅花!」
初夏の光をはね返すような明るい笑顔。
見る者を思わず惹きつける、天真爛漫な輝きだった。
けれど、その腕には——土だらけの牛蒡。
頬にも手にも泥がついていて、服の裾まで汚れている。
「ふふ!見て!」
得意げに牛蒡を掲げる春燕。その隣では、同じく泥だらけの雪麗が大きなザルを抱えていた。
中にはインゲン、枝豆、トマト、ナス……
夏の恵みが色鮮やかに並んでいる。
「琳家の畑って、いろいろ採れるのね!どの野菜も立派だわ!」
「だから」
「なんで」
「「春燕様が、収穫してるんですか!」」
夕月と紅花のツッコミが、きれいに重なった。
―胡春燕。
三ヶ月ほど前に琳家へ迎えられた、
琳家当主・琳凌偉の仮の婚約者。
山間で材木業を営む商家の娘——のはずなのだが…。
まるで使用人たちと同じように働き、取り繕うこともせず、
誰に対しても気さくで優しい。
身分の差を感じさせないその人柄から、今や屋敷中の
者たちに慕われている。
「もー!!! 今日は大事な日なんですから!」
夕月が腕をまくる。
「ほらっ!さっさと湯浴みして、支度する!
雪麗も!早く来て!」
「は、はい!」
勢いに押された春燕は、泥だらけのまま引きずられていった。
*
その様子を、少し離れた回廊の影から凌偉が見つめていた。
泥だらけのまま引きずられていく春燕の背を、彼はただ黙って
目で追っていた。
思わず、凌偉の口元が緩む。
――まったく。
仮とはいえ婚約者という立場を忘れたような、
あまりにも無防備な姿。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
以前の自分なら、琳家の当主としての体面や、周囲の目を気にして、
こんな光景は見過ごせなかっただろう。
だが今は――違う。
汚れた手も、無邪気な笑顔も、
屋敷の誰からも慕われるその在り方さえ。
目で追うだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
春燕の姿が回廊の向こうに消えても、
凌偉はしばらくその場を動けずにいた。
胸に残る熱が、静かに、確かに、自分の心を
変えていくのを感じながら。
「水月鏡花」の更新は【週3日、月・水・金:21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ
近づいていく時間を、
皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。
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