表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/112

番外編 「約束」

 山に囲まれた小さな街。

杉の木々のあいだから陽の光がふわりと差し込み、

穏やかな昼下がりの空気が満ちていた。

通りを抜ける風はなく、けれど街全体に、杉の

澄んだ香りが漂っている。


「いい香り…。」

凌偉りょういの母、芙蓉ふようは思わず小さくつぶやいた。


久しぶりの里帰りの途中だった。

もともと体が弱く、季節の変わり目には体調を

崩しやすい芙蓉だが、ここ数年は落ち着いていた。

だからこそ、今回の旅も大丈夫だと思っていた

――はずだった。


琳家を出て五日目。

山間の街へ差しかかった頃、旅の疲れが出たのか、急に

体調を崩してしまった。

急ぎ宿をとり、回復するまで滞在することになった。


小さな街なので医者には期待していなかった。だが、

薬に詳しい者がいると紹介された女性の腕前は見事だった。

処方された薬湯がよく効き、芙蓉の体調は

みるみる落ち着きを取り戻した。


明日には出発できる――そう判断した芙蓉は、

その女性・蘭心らんしんの屋敷を訪れていた。


「顔色がだいぶ良くなられましたね。」

明るい笑顔を浮かべながら、蘭心が薬湯を運んできた。

光を受けて輝くような笑顔が印象的だ。


「蘭心さん。ありがとう。」

芙蓉はほっと微笑み、茶杯を受け取ってひと口飲む。


「貴方みたいなお医者様がいて本当に良かったわ。」


「お医者様だなんて!そんな立派なものではないわ。

 薬が好きで少し知っているだけ。」

蘭心は照れたように笑った。


「明日出発なのでしょう?」

心配そうに尋ねる蘭心に、芙蓉は優しくうなずく。


「心配しないで。大丈夫よ。貴方からお薬もいただいたし。

 ここからなら実家も、そんなに離れていないから。」


そう言いながら、ふと中庭に目を向けた芙蓉は、思わず声を上げた。


小さな少女が凧を揚げていたのだ。


「まあ!可愛い!」


「娘なの。春燕しゅんえん。こっちにいらっしゃい。」

蘭心に呼ばれ、少女は軽やかに走ってくる。


「こんにちはっ!」


蘭心にそっくりの瞳と笑顔。初対面でも人の心を

掴む愛らしさがあった。


「こんにちは。私は芙蓉よ。貴方のお名前は?」


「しゅんえん!」


「春燕…!なんて可愛い燕さんなのかしら!

 燕さんは、いくつなの?」


「よっつ!」

指を一、ニ、三、四…と数えて、得意げに突き出す。


春燕は芙蓉の飲んでいた薬湯の茶杯を見つけ、

少しだけ眉を寄せた。


「…ふようさまは、びょうきなの?」


「貴方のお母様が治してくれたから。よくなったわよ。」

芙蓉は優しく微笑み、春燕の小さな両手をそっと握った。


「げんきになった?」

見上げてくる瞳がまっすぐで、胸があたたかくなる。


「ええ。」


すると春燕は、近くの椅子へよじ登ると立ち上がり――

その小さな身体で芙蓉をぎゅっと抱きしめ、

頭を優しく撫でた。


「だいじょうぶよ。」


「……!」

あまりにも小さくて、あまりにもあたたかい。

芙蓉の胸の奥がじんわりと熱くなる。


「おかあさまがおしえてくれたおまじない!」

春燕は満面の笑顔で言った。


「だいすきで、いちばんたいせつな、おなじないなのよ!

 えがおになれるの!ふようさまにも、おしえてあげるね!」


「大好きで、一番大切な…おまじない…。」

なんて――なんて愛おしい子なのだろう。

芙蓉は胸の奥に、光が満ちていくのを感じた。


春燕の笑顔は陽の光のようにあたたかく、

星のようにきらめいていた。


――この子だわ。そう、思った。


「決めた。」

芙蓉はそっとつぶやいた。


「春燕。おまじないのお礼に私の一番の宝物をあげるわ。」


「たからもの?」


「貴方なら。…いいえ、貴方がいいわ。」

あの子には、この子でなければ。


芙蓉は袖から小さなハンカチを取り出した。

牡丹と蓮子の刺繍がほどこされた、美しいもの。


「これを貴方に。」

芙蓉はそのハンカチをそっと春燕に渡した。


「必ずまた、会いましょう。可愛い燕さん。」

その微笑みは、幼い春燕の目にも、

忘れられないほど美しかった。


「おおきくなったら、またあえる。」

春燕はその約束を心から信じていた。

ハンカチを見るたびに、何度も何度も、

胸を弾ませながら思い出していた。


――だが。


その四年後、麓の街で流行り病が広がる。

春燕の母、蘭心はそれをきっかけに心の病を患い、その後、肺の病で亡くなる。


さらに五年後。

芙蓉も、馬車の滑落事故によって命を落とした。

交わした小さな約束だけが、春燕の記憶の中で色褪せることなく――温かな光のように輝き続けている。

 

次回の更新は【明日21時半】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ