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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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間の話 7

 それは、春燕が琳家に迎え入れられる半年前のことだった。

朝の陽が差し込む食堂。広い卓の上には湯気を立てる粥と

菜が並び、静かな器の音だけが響いていた。


「婚約者を迎え入れたい、と?」

その空気を破るように、恭信きょうしん凌偉りょういにゆっくりと

問い返した。


凌偉は姿勢を崩さず、箸を動かしながら淡々と続ける。

「先日の帳場の件。あんな騒ぎはもう金輪際起きて

 ほしくありません。屋敷に押しかけてくる娘達や、

 縁談の手紙の返事も…もう余計なことに時間を

 とられたくない。オレが婚約すれば収まる話です。」


恭信ときょうは顔を見合わせた。

先日の“帳場騒動”――凌偉に気に入られたい一心で、

勝手に帳簿を入れ替えた娘の件は、屋敷どころか

街中の噂になっていた。

それを思い出した嬌の眉が、わずかにひそまる。


「しかし…それなら婚約者は…相手は誰か

 決めているのですか?」嬌が静かに問う。


凌偉は一度だけ箸を置き、まっすぐに二人を見た。

「おりません。琳家に相応しい娘ならば誰でも

 いいので、叔父上と叔母上が決めてください。

 できる限り早急に。」


その声音には、まるで情がなかった。

婚約というものを、彼は“当主の義務”のひとつとして

しか見ていない――嬌はそう悟った。


けれど、胸の奥に引っかかる言葉があった。

今こそ、伝えるべきなのではないか。

嬌は一度、深呼吸をして意を決する。

芙蓉ふようお姉様がー…」

そう言いかけた瞬間、凌偉の視線が冷たく嬌を射抜いた。


その目が、はっきりと語っていた。

“その名前を口にするな”――と。


凌偉は何も言わずに立ち上がり、食卓を離れる。

「凌偉!」

嬌の声が背中に届いたが、彼は振り向かずに食堂を後にした。


静まり返った室内に、嬌の吐息が落ちる。

「どうするべきでしょうか…。」

彼女が力なく呟くと、恭信は小さくうなずきながら茶を淹れた。

湯の音が、ふっと場の緊張を和らげる。

「そうだなあ……。」

恭信は考え込むように、茶杯を嬌の前に滑らせる。


凌偉がまだ幼かった頃――。

彼の母・芙蓉が一度だけ話していたことがあった。

“凌偉の婚約者として迎え入れたい娘がいる”と。

けれど、その想いを息子に告げる前に、芙蓉はこの世を去ってしまった。


嬌はその記憶を思い出しながら、そっと茶杯を

手に取る。

「婚約をすることで、あの子が…凌偉が少しでも

 救われるのであれば…。」


「その娘…。名前はなんという娘だったかな。」

恭信は湯気の立つ茶を見つめながら尋ねた。

「春燕。胡春燕…。山間の街で出会った子だと。芙蓉お姉様はそう言われていました。」

「胡春燕……。」

恭信はその名を静かに繰り返すと、卓の端に

控えていた補佐を呼び寄せた。


「調べてほしいことがある。」

短くそう告げる声に、嬌はわずかに目を伏せた。


――それが、運命を動かす始まりになることを、

まだ誰も知らなかった。



 ―数ヶ月後、

琳家本邸・恭信と嬌の居室。

夜はまだ冬の空気が濃く、吐く息は白い。

「……。」長く読み続けていた報告書を、嬌はようやく閉じた。

小さく息を吐く。胸の奥まで張りつめていた緊張が、

ふっとほどける。


「どう思う?」

向かいに座る恭信が、静かに湯を注ぎながら尋ねた。

茶の香がほのかに立ちのぼる。

湯気に包まれながら、嬌は茶杯を受け取る。


「……思っていた以上に、厄介な家のようですね。」嬌は茶を一口含み、熱を確かめるようにゆっくりと言った。


報告書は胡家についてのものだった。

胡家――山間の街で材木商を営んできた古い商家。

だが報告によれば、前妻──春燕の母が亡くなって

から歯車が狂い始めた。


商売は傾き、金の流れは悪化し、最近では

詐欺まがいの取引までしているという。

後妻とその娘が家に入って以来、古くから

仕えてきた者たちは皆姿を消し、代わりに出入りするのは

素性の怪しい人間ばかり。


春燕は滅多に屋敷の外へ出ず、唯一「雪麗」という

侍女だけが側にいる。街の者は胡家のことを

避けており、それ以上のことは分からない。

読み進めるほどに、不穏な闇が見えてくる。


嬌は目を閉じ、静かに息を整えた。

ー春燕。

亡き義姉・芙蓉が、生前に凌偉の婚約者として

望んでいた娘。芙蓉が亡くなってから、その話は

途絶えたままだ。

喪が明けても凌偉は心を閉ざし、どこか時を

止めたように過ごしている。


「凌偉との縁談を望む家など、いくらでもある。

 無理にこの娘を選ぶ必要はないのだぞ。」

恭信の声は穏やかだが、そこには現実を見据える

重さがあった。


「それでも――」嬌は顔を上げた。

灯りに照らされたその瞳は揺るぎない。

「私は芙蓉お義姉様の願いを、叶えたいのです。

 芙蓉お義姉様が選ばれた子なら……もしかしたら、

 凌偉を救ってくれるかもしれない。」


長い沈黙のあと、恭信は静かに頷いた。

「……そうか。」

短い言葉に、妻への深い信頼が滲む。


嬌はもう一度報告書に目を落とした。

「それと、この雪麗という娘。春燕と一緒に

 迎え入れたいと思います。」

「侍女の娘を?」恭信が少し驚いたように眉を上げる。

「なぜだ?」

「理由は……勘です。」嬌は微笑んだ。

「春燕にとって、この子はただの侍女ではありません。

 彼女が彼女であるための“支え”のような気がするのです。

 そして――私たちにとっても、特別な存在になる気がします。」


恭信は目を細め、静かに笑った。

「嬌の勘は、外れたことがないからな。」

そして、ゆっくりと頷く。

「わかった。春燕と雪麗、二人を迎え入れよう。」


そして季節は巡り、春の芽吹きが感じられる頃…琳家より胡家へ、春燕の婚約の申し入れが届くのであった。

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