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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第十五話 「燕」4

第十五話「燕」は4分割で更新していきます。これは4つ目です。

 幼い頃――

「父上と同じそろばんがほしい」と言ったことがある。

父上は黒檀で作られたそろばんを、肌身離さず

持ち歩いていた。

母上が染め上げた藍色の衣をいつも着ていた。

仲睦まじく、常に寄り添っていた二人。


雷鳴が響いた。

その瞬間、凌偉りょういの体がびくりと震えた。

雨が降る。雷が鳴る。

あの日の記憶が、容赦なく蘇る。


「はっ……!」

喉が詰まり、呼吸が乱れる。両膝が床についた。

「凌偉様!!」春燕が駆け寄る。

 

――帰りを一日早めようと言い出したのは、オレだった。

どうしても見せたい商いの計画があったから。

あの時、無理に出発しなければ。

雨の中、父と母を乗せなければ。

事故だと、皆は言ってくれた。


違う。オレが言い出さなかったら

あんなことにはならなかった。

琳家の事業だってこれからだったんだ。

父上と一緒に商いができるはずだったのに。

オレが…オレのせいで。琳家から、屋敷のみんなから、

街の商売仲間から二人を奪ってしまった。


わかっている。

あの2人が自分を恨むなんてあり得ない。

そう思うほどに大切にされていた。

惜しみない愛情を与えてもらっていた。


馬車が崖から落ちる瞬間、母上は俺を、父上は

母上と俺を抱きしめて落ちていった。


母上は亡くなるまで俺の頭を撫でてくれていた。

ー大好きで一番大切なおまじないー

最後まで、自分を守ってくれていた。


止めどなく涙が溢れて仕方がない。

そうだ、だから…

「だからオレは……自分を許す事ができない…。」

声が震える。涙が頬を伝う。


「凌偉様…。」

「オレから二人を奪った自分自身を…許す事が

 できない。」ポタポタと床に涙が落ちていく。

「家族も屋敷のみんなだって、誰一人オレを

 恨んでいない。わかっている。だけど…。

 みんなの優しさを…受け入れてしまいたい自分を…

 オレは…許す事ができない。」


ーー抱きしめてあげたい。春燕は心からそう思った。


心の奥に触れる事を許してほしい。

そっと凌偉の頭を抱きしめ優しく撫でる。

慈しむように。

「大丈夫。」そう、優しくささやく。

自分を許しても大丈夫。

凌偉様が泣いて壊れそうになっても。

何度だって。私がおまじないをかけてあげる。

一番大切で大好きなおまじないを。

凌偉様が、笑顔になれるように。



雨の音が、いつの間にか消えていた。

雲の切れ間から陽の光が差し込み、承徳閣しょうとくかくの室内を

やわらかく包み込む。


どれほどの時が流れたのだろう。


春燕の胸に頭を預ける凌偉は、しばらくその鼓動を

聞いていた。トクトク、と規則正しく響く音が

聞こえる。その一つ一つが、凍っていた心に温もりを運んでくる。


涙は、もう止まっていた。

「少しの間だけ、一人にしてくれ。」

凌偉が静かに言うと、春燕は小さく頷いた。

「はい。」

春燕はそっと彼から離れ、承徳閣の門の

外の庭先へと出た。


残された凌偉は、そろばんと藍の衣に近づく。

手を伸ばすと、指先に懐かしい感触が伝わる。

父と母が残した、たった二つの大切なもの。

陽の光を受け、衣は深い海のように輝いていた。

衣の中に、何かが挟まっている。

小さな手紙だった。

「……これは、母上の字?」

封を開けると、柔らかな筆致の文字が目に映る。


凌偉へ

冠礼のお祝いに、

私たちから一番大切なものを贈ります。

あなたの人生が素晴らしいものになりますように。

凌偉のもとへ、燕は来てくれたかしら。


「燕……?」一瞬、胸の奥で何かが弾けた。

凌偉は手紙を胸に抱いて走り出す。

承徳閣の扉を押し開けると、外はすっかり明るくなっていた。

陽の光に目を細めると、庭の方から春燕の声が響いた。

凌偉はゆっくりと目を向ける。

まるで春燕の周りだけ時間が少しずつ

動いているようだった。


木々が揺れる。陽の光に反射した雨粒がキラキラと

輝きながら、ゆっくりと落ちていく。


空には雲ひとつなく澄んだ青空に、大きな虹がかかっていた。

橋の上からこちらを見つめる瞳も、風になびく髪も

全てが眩しく光り輝いていた。


「凌偉様!」

春燕が自分の名前を呼ぶ。

それだけで胸が温かくなる。

ー凌偉の元に 燕は来てくれたかしらー

(ああ、そうか。)

凌偉の心が震える。

 

遠い所からオレの心を運んできてくれた春の燕


「春燕」凌偉はその名前を口に出していた。

春燕の動きがピタリと止まり、目が大きく開かれる。

「私の名前……初めて呼んでくださいました。」

顔がぱっと明るくなり、満面の笑顔が咲いた。

「嬉しい!」その笑顔を見て、凌偉の胸の奥が

熱くなる。


彼は歩き出した。


春燕も駆け寄ろうとした瞬間――

「きゃっ!」

濡れた橋の上で足を滑らせ、そのまま凌偉に

被さるように二人で転ぶ。

「り、凌偉様っ! も、申し訳ありません!

 お怪我は!?」春燕は顔を真っ赤にして慌てる。


「大丈夫だ。春燕こそ、怪我はないか?」

凌偉が身を起こして言う。

「わ、私は……大丈夫ですっ!」

 春燕は片手をついて凌偉から離れようとするが、

ずるっ!とまた滑り凌偉に倒れ込む。

今度は凌偉はしっかりと春燕を抱きしめていた。


「もっ申し訳ありません…!」

あまりの失態に凌偉の顔が見れない。


「ふっ……くくっ……」

頭の上で凌偉の微かな笑い声が聞こえる。

春燕は呆気に取られて凌偉に顔を向ける。

「春燕。貴方はいつも、顔や髪に何かついているな。」

凌偉が笑っていた。春燕の髪には雨で濡れた葉が

つき、顔は片手をついた際に泥で汚れていた。

 

「初めて会った時も泥だらけで。何て格好だと思ったけど……ふふっ、ははは!」

なんて美しい光景なんだろう。春燕は息をするのも

忘れて凌偉の笑顔に見惚れていた。


 

「坊ちゃんが……あんなに声を出して笑ってる……!」

遠くから見ていた夕月が、涙をボロボロと流す。

「バカね……泣きすぎよ……!」

そう言う紅花も涙を堪えきれない。

その二人の横で、雪麗が微笑んでいた。


「君のお嬢様は、やっぱり面白い子だね。」

隣に立つ愁飛がそう呟く。

雪麗は静かに答える。

「いいえ。お嬢様は“面白い”子ではありません。」

そして胸に手を当てて言った。

「とても素晴らしく、とても誇らしい方です。」


屋敷の使用人たちがいつの間にか集まり、誰もが

涙と笑顔で二人を見つめていた。


その奥では――

「素晴らしい子が来てくれたものだな。」

「ええ……芙蓉お義姉様の選ばれた子ですから。」

 恭信と嬌が肩を寄せ合い、琳家の“宝”を見つめていた。


陽の光が庭を包み、虹はゆっくりと消えていった。

雨の季節が、静かに終わりを告げたのだった。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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