第十五話 「燕」3
第十五話「燕」は4分割で更新していきます。これは3つ目です。
確かに母上は言っていた。
山間で出会った女の子。教えてもらったおまじない。
「母だ。」凌偉は呟くように春燕に言う。
「芙蓉は俺の母の名だ。」
「え……?」春燕の目が大きくなる。
「芙蓉様が…凌偉様のお母様…?」
記憶の中の芙蓉の笑顔が、ゆっくりと蘇る。
「あの…人違いではありませんか?ここから私の街は
だいぶ離れた場所ですし……。」
「これは母上が好きだった刺繍だ。牡丹と蓮子の花。
花の形も糸の色も、まったく同じだ。」
春燕は呆然とハンカチを見つめた。
幼い頃、出会った美しい人。優しく笑い、頭を
撫でてくれた——あの人。
「“おまじないのお返しに、大きくなったら宝物を
あげる”……そう言ってくださいました。」
春燕は、ぽつりと呟く。
「宝物?」
「何かは教えてもらえなかったんです。でも、いつか
会える日を……ずっと、楽しみに待っていました。」それはもう…叶わない願いになってしまったけれど…。春燕は思わず目を伏せる。
凌偉は静かに息を吸う。
「……母上の部屋に、何か残っているかもしれない。」
「え…?でも……もう十年以上も前の話です。」
「琳家では“貸し借りはなし。一度した約束は
必ず果たす”。」
凌偉は春燕を見つめた。
一瞬、言葉を探し、ゆっくり言った。
「——一緒に、探しに行かないか。」
そのとき、外の雨はすでに止み、
雲間から差し込む淡い光が、二人を包んでいた。
*
本邸の奥。
小さな池に橋がかかる中庭を越えた先に、
「承徳閣」と記された重厚な扁額が掲げられていた。
古い瓦の軒から雨のしずくが落ち、張り詰めたような
静けさの中で、春燕はその扉を見上げた。
他のどの部屋よりも、この場所だけ空気が違う。
胸の奥が自然と重くなる。
「凌偉様?」
振り返ると、凌偉は中庭の石畳の上に立ち
尽くしていた。
その顔は強張り、凌偉の足が震えてすくむ。
もう4年。まだ4年。
承徳閣。
そこは、凌偉の両親の部屋だった。
両親が亡くなってからの4年間、誰ひとりとして
この部屋に入ることは許されなかった。
凌偉自身も事故以来、一度も足を踏み入れていない。
扉の向こうに残るのは、温もりと喪失の記憶。
触れた瞬間に、すべてが崩れてしまいそうで。
けれど今は、違った。春燕が、隣にいる。
(大丈夫だ。)
(今は雨も降っていない。)
(俺は、思い出さない。)
そう言い聞かせ、凌偉は扉に手をかけた。
重い扉が軋む音とともに、封じられた空気が流れ出す。
*
同じ頃、本邸の厨房。
「坊ちゃんがっ! 承徳閣に入っていかれた!!」
使用人の順旺が血相を変えて
飛び込んできた。
「嘘でしょ!?」紅花と夕月が声を揃える。
「ひとりで!?」
「い、いや…春燕様と一緒に!」
その言葉に三人は凍りつき、夕月の手から包丁が
落ちそうになる。紅花が息を呑み、雪麗が心配そうに尋ねた。
「承徳閣とは…?」
「若様のご両親の部屋よ。」
紅花の声は少し震えている。
「四年間、誰も入っていない…。」
「でもお嬢様と一緒なら……。」と雪麗が言いかけたとき、順旺が再び大声を上げた。
「でも! 天気がまた崩れてきてるんだ! もし雨が降ったら…!」
「落ち着きなさいよ!」夕月が背中を叩く。
「どうした方がいい!?嬌様と恭信様にも知らせた
ほうがいいか!?屋敷中の使用人を集めるか!?」
順旺は今にも泣きそうだ。
「もう本当に落ち着けって!」
紅花は怒りながら順旺の膝を軽く蹴る。
「とりあえず騒ぎを起こさないで。嬌様と恭信様には
知らせてきて。」
夕月にそう言われた順旺は
「嬌様ぁ〜!!恭信様ぁ〜!!」と大声をあげながら
駆け足で出て行った。
「アイツ…!騒ぐなっていったのに!」
紅花が静かに怒りながら言う。
きっとすぐに屋敷中に知れ渡るだろう。
「私達も行こう。中には入れないけど…遠くからでも
見届けたい。」祈るように言う夕月。
雪麗は軽く頷いて二人の後をついて行った。
*
承徳閣の中は時間が止まっているようだった。
ほんのかすかに檀香の香りがする
父上の好んだ香の香りだ。それだけで胸が
締め付けられていく。心臓がうるさい。大丈夫だ。
呼吸も落ち着いている。凌偉は息を整える。
「奥に保管室がある。大切なものは全て、そこに。」
春燕を連れてゆっくりと進む。
保管室の棚には沢山の箱が置かれており、それぞれに
宛名がかかれている箱がいくつも置かれている。
凌偉と春燕で一通り探していくがそれらしいものは
見つからない。
「ないのか……。」凌偉が低く呟く。
「凌偉様。奥にも棚があるみたいです。」
春燕の呼びかけに保管室の奥へと進む。
奥に扉がある。開けると棚が現れ
一際大きな箱が一つだけ置かれていた。
――“凌偉” そう書かれた箱。
「凌偉様の物ですか?」
「いや。知らない。」
二人は顔を見合わせて一緒に箱を開ける。
その中には、
目を見張るほど美しい藍色の衣と、
黒檀で作られた豪奢なそろばんが収められていた。
「なんて綺麗な色…!こんな立派なそろばんも!
見たことがありません!」
春燕は感嘆の声をあげる。
だが、凌偉の耳には届いていなかった。
目が一点を見つめたまま、動かない。
外で、雨の音がし始めた。
次回の更新は【明日21時】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ
近づいていく時間を、
皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。
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