第二話「夕月と紅花」4
食後の膳が片づけられると、部屋の中は再び静けさを取り戻した。
灯台の火がゆらゆらと揺れ、淡い橙色の光が壁と天蓋を優しく染めている。
外では夜風が笛のように吹き抜け、庭の竹がさらさらと鳴った。
「お食事、お疲れさまでした。少し休みましょうね。」
夕月は春燕の背後に回り、椅子をそっと勧めた。
卓の上には、まだ温かい茶器が一つ。香り高い花茶の湯気が漂っている。
春燕が腰を下ろすと、夕月は櫛を手に取り、静かに言った。
「髪、梳いてもよろしいですか?」
春燕は驚いて振り向く。
「え……そんな!自分で――」
「いいんですよ。」夕月は柔らかく笑い、春燕の肩にそっと手を置いた。
「せっかく長い旅を終えてお疲れでしょう?
今夜くらいは人の手に甘えてくださいな。」その言葉に、春燕の胸が温かくなった。
おずおずと頷くと、夕月は微笑み、丁寧に櫛を髪に入れた。
櫛が髪をすべる音が、静かな部屋にかすかに響く。ゆっくり、ゆっくり。
髪の一本も乱さぬよう、まるで絹を撫でるような手つきだった。
「……本当に、きれいな髪ですね。」夕月がぽつりと言う。
「こんなに滑らかで柔らかい髪、久しぶりに見ました。」
「そ、そんな……お世辞でも嬉しいです。」
春燕が照れたように笑うと、夕月はくすりと笑い返す。
「お世辞じゃありませんよ。風に当たっても艶を保ってるなんて、
よほど丁寧にお手入れされてきた証拠です。」その言葉に、春燕は思い出す。
「……雪麗が、毎朝梳いてくれていました。
忙しいのに、いつも丁寧に。」
夕月は手を止め、少し優しく頷いた。
「そう……とても大切にされていたんですね。」
「はい。」
春燕は胸の奥がくすぐったくなりはにかみながら俯いた。
夕月がそんな春燕を何も言わず、優しく見つめる。櫛が最後のひとすべりを終えると、
髪は月光のように艶やかに輝いた。
「はい、これでおしまい。とっても綺麗になりましたよ!
では春燕様!今日はゆ〜っくりお休みください。また明日来ますね〜!」
後片づけを終えた夕月は、春燕の寝る支度まで手伝い、にこやかに手を振って部屋を出ていった。
賑やかだった部屋に静寂が戻る。
灯りの油が、ちろちろと心細く揺れる。
「油を使いすぎたら、もったいないわ……。」
春燕は小さくつぶやき、早めに灯を落とした。
寝台の布団に身を沈める。
柔らかく、驚くほど温かい。
ふと、今日一日の出来事を思い返そうとしたが、
湯のぬくもりと布団の心地よさが、すぐに意識を包みこんでいく。
(……琳家……本邸……凌偉…様)
思考の断片がふわりと溶けて、
春燕のまぶたが、そっと閉じられた。
――こうして、春燕の長い一日は静かに幕を下ろした。




