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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第十五話 「燕」2

第十五話「燕」は4分割で更新していきます。これは2つ目です。

 春燕しゅんえんは、しとしとと降り続く雨の中、長い回廊を歩いていた。

濡れた瓦から落ちる雫が石畳を打ち、遠くで雷が低く響く。

そのたびに胸の奥の不安が小さく跳ねた。


「いない……。」


誰もいない廊下の先を見つめ、春燕は小さく呟く。

あの日、凌偉りょういはまた春燕を突き飛ばし、

何も言わず部屋に戻ってしまった。

それから、五日。姿を見せていない。

胸の奥がきゅっと痛む。


——傷つけてしまったのだろうか。


掌に残るあの日の感触を見つめながら、春燕は小さく

息を吐いた。静かな屋敷の奥へと足を進める。

ふと、廊下の先の部屋の扉が半ば開いているのに気づいた。

中を覗くと、薄暗い部屋の中央で凌偉が倒れている。


「凌偉様!!」思わず駆け寄り、膝をつく。

その瞬間、静かな声が雨音を割った。

「……また貴方か。懲りないな。」その声は以前の

ような荒々しさはなく、静かで落ち着いていた。

どうやら倒れていたのではなく、横になっていた

だけらしい。春燕は安堵の息を漏らし、

そっと凌偉の隣に座った。


部屋の中には、雨音だけが優しく響いていた。

どれほどの時間が過ぎただろう。

窓の外の光は淡く、二人の間を静寂が包む。

「……がっかりしただろう?」

凌偉がぽつりと口を開いた。顔は窓の方を向いている。

「がっかり……?」春燕は首をかしげた。


「琳家の当主が取り乱す姿なんて、見たくなかっただろ。」

その声には感情がなく、ただ淡々と落ち着いている。

「いいえ。そんなこと……ありません。」

「は。従順だな。」

凌偉が冷たく呟き、身体を起こした。

その瞳がどこか試すように春燕を見つめる。


「そんなに俺に尽くしたいなら——他の娘たちの

 ように身体で慰めてみるか?」

凌偉の目がドロリと揺らめく。

「え……?」

春燕は意味がわからず目を瞬いた。

その瞬間、凌偉は彼女の手首を掴み、床に押し倒した。

「俺を癒したいんだろう?」

冷たく、しかしどこか壊れそうな声。

春燕の細い手首は、少し力を込めれば折れて

しまいそうだった。


春燕は一度目を閉じ、そして決意したように見開く。

「……わかりました。」

凌偉の目が一瞬だけ見開かれた。

春燕はまっすぐに見上げ、穏やかに微笑んだ。

「身体で……それでしたら、薬湯をお作りします。

 身体も温まりますよ。」

「……は?」予想外の返しに凌偉は呆気に取られる。


「私の身体でできることといえば、家事か薬作り

くらいですから。」首をかしげるその仕草に、本気で

言っていることが伝わる。

「……はあ。」

凌偉は力を抜き、春燕の上から離れた。


自分の言動が急に馬鹿らしく思え、深く息を吐く。

「今なら厨房は誰もいません。お作りしますね。」

立ち上がろうとする春燕の袖を、凌偉がそっと引いた。

「……一緒に行く。」

静かにそう告げ、二人は並んで歩き出した。


 

 本邸の厨房はしんと静まり返っていた。

春燕は手際よく火を起こし、薬草を刻み始める。

春燕の小さな歌声が静かに厨房に響く。

 

每当花开时,我都会想起你

(花が咲くたび、あなたを思い出す)

那温柔注视着我的你

(優しく見つめてくれるあなたを)

每当星辰闪耀时,我都会想起你

(星が輝くたび、あなたを思い出す)

那轻轻抚触着我的你

(そっと触れてくれるあなたを)

翡翠与黄金

(翡翠や黄金も)

都不及你的眼眸

(あなたの瞳には及ばない)

哪怕是水中的月

(たとえ水面の月でも)

或镜中的花也好

(鏡の中の花でも構わない)

只要能见到你

(ただあなたに会えるなら)

只要能见到你……

(ただあなたに会えるなら…)


 

雨の音がしない。

聞こえるのは、春燕の歌声と穏やかな音だけ。

「その歌……好きなのか?」凌偉の声が静かに響く。


「母が好きだった歌なんです。夜になると、

 よく歌ってくれました。」

春燕の声はどこか懐かしげで、そして少し

寂しげだった。

「……そうか。」

 しばらく沈黙が続き、やがて春燕が振り向く。


盆に乗せた茶杯を笑顔で差し出す。

「どうぞ。」

 湯気とともに、生姜の香りが広がる。

「何が入っているんだ?」

生姜しょうが陳皮ちんぴなつめ薄荷はっか蜂蜜はちみつです。」

 一口飲むと、体の芯に温かさが広がる。


「……美味しい。」

「お気に召したなら、いつでもお作りします。」

春燕は柔らかく微笑む。

凌偉の胸の奥で、何かがゆっくりと溶けていく気がした。

その時、茶杯が少し傾き、熱い湯が手にかかる。


「熱っ!」

「凌偉様!大丈夫ですか!?」

「大したことない。」

春燕が袖からきん(ハンカチ)を取り出しそっと拭う。

その巾に施された牡丹と蓮子の刺繍に、凌偉は

思わず息を呑んだ。

「…これはどこで?」

「小さい頃、一度だけお会いした芙蓉ふよう様と

 いう方にいただきました。」春燕が優しく笑う。

 


 ——芙蓉。

凌偉の胸の奥で、懐かしい記憶が音を立てて開いた。



「母上…最近どうされのですか?」

八歳の凌偉が庭園の亭(東屋)で書物を読んでいる。

その凌偉の頭を、母の芙蓉が愛おしそうに

抱きしめて撫でる。


「何が?」くすくすと柔らかい笑い声。

「ここしばらく、やたらと俺の頭を抱きしめていますよね。

 子供扱いしないでください。」

「凌偉はまだ八つよ?」芙蓉は優しく言う。

「もう八つです」凌偉は不満気に答える。


「おまじないよ。大好きで一番大切なおまじない。

 笑顔になれるんですって。」

芙蓉はそういうと優しく凌偉の頭を撫でた。

凌偉はこれ以上言っても仕方ない、と目線を

書物に戻す。

庭園は光で満ち溢れ、親子の美しい思い出となる

一幕を美しく照らしていた。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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