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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第十四話「雨」4

第十四話「雨」は6分割で更新していきます。これは4つ目です。

 きょうの部屋は、どこか落ち着く香木の香りに満ちていた。

「さあ、温まりなさい。」

嬌が差し出した湯気立つ茶杯を両手で受け取る。

春燕しゅんえんはその温もりに、張りつめていた心が少しほぐれていくのを感じた。


嬌は春燕をじっと見つめたまま、静かに語り始めた。

「――あれは、今から四年前のことです。」

春燕は息をのむ。

嬌の声は落ち着いていたが、その奥には深い痛みが滲んでいた。

凌偉りょういとご両親は、商談を終えて屋敷へ戻る途中でした。

 今日みたいに雷が鳴り、雨が降り頻る中。

 街から少し離れた山道で、連日の雨にぬかるんだ道が

 崩れたのです。馬が足を取られ、馬車ごと谷へ……。」

嬌の言葉に、春燕の顔から血の気が引いていく。


「知らせを受けて、私たちも使用人とすぐに

 駆けつけました。でも――土砂降りで、道は見えず、

 何度も迷いました。辿り着いたときには、

 馬車はひどい状態でした。」

嬌の手が震える。茶杯の中の湯が、静かに波打った。


「倒れた木々と土砂の中……。ご両親は、凌偉を

 抱きしめるようにして――亡くなっていました。

 凌偉だけが、守られるようにして生きていたのです。」

春燕は胸の奥が痛くなった。

まるで、自分の呼吸まで奪われていくようだった。


「助け出された後、凌偉は高熱を出して一週間、

 目を覚ましませんでした。ようやく目を開けたとき……

 声が出なくなっていたのです。そして、心を

 失っていました。感情というものが、まるで

 消えてしまったかのように。」

嬌は遠くを見つめるように語る。


「昔はね、よく笑って、よく怒る子だったのよ。

子供らしくて、うるさいくらいに元気で……。」

その笑みは、懐かしさと哀しみが入り混じったものだった。


「喪に服してからの凌偉は、自室にこもり、まるで

 取り憑かれたように、そろばんの珠を弾き続けました。

 正気を保つために、そうしていたのかもしれません。」

嬌は一度、息を整えるように沈黙した。


「一年が経ったある日、ようやく声が戻りました。

 けれど、その最初の言葉は――

 “父上と母上は、オレが殺しました” でした。」

茶杯の縁を握る春燕の手に力がこもる。

「そんなこと……。」と呟きかけ、言葉を飲み込む。


「それでも、私たちは嬉しかったの。

 話せるようになった。笑わなくても、

 目を合わせなくても。それだけで、少し希望が

 見えた気がしてね。」嬌の声がまた静かに落ちる。


「でも……あの日以来、凌偉は“雨”が降ると

 苦しむようになりました。呼吸が荒くなり、倒れるのです。

 最初は別の病かと思いました。けれど、

 どの医師にも分からなかった。“心の中に、

 治らぬ傷がある” としか言われませんでした。」

春燕の脳裏に、あのてい(東屋)での光景がよぎる。


息ができず苦しむ凌偉の姿。

あの時、確かに――雨と雷の音が、彼を縛っていた。


「二年目の梅雨も、同じように倒れました。

 命に別状はなかったけれど、私は何度も恐れたのです。

 この子はまた、あの雨の夜に引き戻されて

 しまうのではないかと。」

嬌の声が微かに震えた。


「二年と少し経ち、服喪が明けて、凌偉は琳家の

 商いを継ぎました。見事な手腕で、誰もが

 驚きました。琳家は安泰だと皆が言いました。

 けれどその年も、梅雨入りの日に――

 倒れたのです。」嬌はそっと茶杯を両手で包んだ。


「だから、屋敷の者たちは知っているのです。

 梅雨の時期には、誰も凌偉を刺激してはいけない。

 静かに見守るしかないのだと。」

春燕は朝の、異様に静まり返った屋敷の光景を

思い出した。あれは、彼を守るための“沈黙”だったのだ。


嬌は春燕の手を取り、やわらかく包み込む。

「名医と呼ばれる医師は全て呼びよせた。でも誰も

 凌偉を“治す”ことはできなかった。

 でも――春燕。貴方には、他の者にはない

 何かがある。」

その声には、深い確信がこもっていた。


「凌偉の心を“知りたい”と言ったその言葉。

 それは、誰も言えなかった言葉です。だから……

 貴方になら、できるかもしれない。」

春燕はその言葉を胸の奥でゆっくりと受け止めた。

嬌の手の温もりが、まるで祈りのように伝わってくる。

雨の音だけが、二人の間に流れていた。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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