第二話「夕月と紅花」2
夕月に導かれ、春燕は深く息を吸った。
門をくぐった瞬間、外の喧騒がふっと遠のく。
代わりに、香の匂いと絹の衣擦れの音が満ちていた。
客をもてなす広間を抜けると、視界が一気に開ける。そこには、ひとつの庭があった。
白い石畳の道、薄紅の花が咲き誇る植え込み、そして水面がきらめく小さな池。
庭を囲むように建物が連なり、その奥へと続く回廊に、風がすべる。
「こちらです、春燕様。」
夕月が、軽やかに裾を翻して歩いていく。春燕は慌ててその背に続いた。
庭を右手に見ながら進むと、奥の建物の前で夕月が立ち止まる。
「気に入っていただけるといいのですが。」
そう言って、彼女は扉を静かに押し開けた。
春燕は思わず息を呑む。
室内は、美しい木目の柱と、白と淡い桃色で統一されていた。
窓や扉には細やかな彫刻が施され、光を受けて柔らかく輝いている。
寝台の上には、薄桃色の天蓋がふわりと揺れ、
陽の光を透かして淡く染まっていた。調度品の一つ一つが丁寧に手入れされていて、
どれもまるで宝石のようだ。
「これは……」春燕の声が自然と漏れる。
「春燕様のお部屋です。」夕月が嬉しそうに微笑んだ。
「わ、私の……!?」
「はい。お気に召しませんでしたか?
もっと広いお部屋の方がよろしいなら……どこがいいかなぁ〜。」
夕月は本気で考え始めたように首をかしげる。
「い、いえっ!! 全然そんなっ!」春燕は慌てて両手を振った。
「むしろ……こんな立派で素敵な部屋、私なんかに……もったいないです!」
夕月はぱっと笑顔を咲かせた。
「良かったぁ〜!気に入っていただけたなら本当に良かったです!」
その明るさに、春燕の緊張が少しだけほぐれる。
「さあ、湯浴みをいたしましょう。」夕月が軽やかに言う。
春燕はもう一度、部屋を見回した。
――こんな場所で、私が暮らすの?胸の奥が、静かに高鳴った。
部屋にはすでに湯浴みの準備がされていた。春燕は断る隙もなく、
夕月によって強引に服を脱がされ、風呂桶に入れられていく。
桶の湯から立ちのぼる香りが、心の奥まで染み込んでくるようだった。
「春燕様! お湯加減大丈夫です!?」
明るい声で夕月が問いかける。
「はっ、はい! 大丈夫です!」春燕は慌てて答えた。
風呂桶にはたっぷりと湯が張られ、その中に摘みたての花が浮かんでいる。
白や淡紅の花弁が湯面に揺れ、光を反射してきらめいた。
ほのかに漂う甘い香りが、緊張でこわばっていた身体をゆるやかにほどいていく。
夕月は手際よく、春燕の髪を丁寧に洗い流した。
香油のついた櫛が髪をすべり、しっとりとした艶を与えていく。
「すごく綺麗な髪ですねぇ。風に当たると、きっともっと柔らかく見えますよ。」
夕月がうっとりと言う。
「そ、そんな……」春燕は頬を赤らめ、湯面を見つめた。
胸の奥で、ぽつりと小さな想いが芽生える。
(私一人のために……なんて贅沢なの。)
今まで、湯浴みといえば冷たい水で身を拭うのが当たり前だった。
こんなにも温かく、優しくもてなされるなんて想像もしていなかった。
まるで夢のよう――春燕は、胸の奥で静かにそう思った。
湯から上がると、夕月が柔らかな衣を用意してくれていた。
麻ではなく絹に近い滑らかさ。袖を通すたびに、心まで溶けていくようだった。
次回、第二話「夕月と紅花」3は
10/27(月)18:00頃更新します。




