第二話「夕月と紅花」1
春燕は緊張で胸がいっぱいだった。
あたりの景色を見る余裕なんてまるでない。
気がつけば、凌偉に導かれるまま琳家の本邸――家族が暮らす居住区へと足を踏み入れていた。
琳家本邸。これが、琳家の……。
目の前にそびえる大豪邸を前に、春燕は思わず息を呑む。
門構えからして圧倒されるほどの威厳。敷石の一つひとつまで手入れが行き届いている。
そんな春燕の緊張をよそに、凌偉は二人の女性を紹介した。
「夕月です。」明るく柔らかい声。親しみやすさを感じる笑顔が印象的だ。
「紅花です。」こちらは、きりっとした眼差し。凛とした立ち姿がどこか近寄りがたい。
「二人には貴方の身の回りの世話を任せている。夕月は12年、
紅花は10年この屋敷で働いている。
何かあったらこの二人に何でも聞くといい。」
そう言い残すと、凌偉はさっさと背を向けて奥へと歩き去った。
まるで「もう用は済んだ」とでも言いたげな足取りだ。
残された春燕は、去っていく凌偉の背を見つめたまま立ち尽くした。
そんな彼女に、夕月が明るく声をかける。
「坊ちゃんはいつもあんな感じなので気にしないでくださいね!」
「はっはい!わかりました。これからよろしくお願いします。
夕月様。紅花様。私のことは春燕とお呼びください。」春燕は深く頭を下げた。
その瞬間――二人の表情が一瞬で固まった。
「いや。夕月様って…!!」思わず吹き出す夕月。
「なんで私たちが様つきで、そちらが呼び捨てなんです?」紅花が呆れたように眉をひそめる。
「私達は琳家の使用人に過ぎません。
春燕様は若様の婚約者として迎え入れられた方。
私達のことは夕月、紅花とお呼びください。」紅花の口調はきっぱりしていた。
「そ…そうですか…わかりました。」
恥ずかしさが頬ににじむ。春燕はおずおずと頷いた。
「さあさあ!お部屋の準備もできていますので!長旅でお疲れでしょう。
本日の夕食はお部屋に運びます。その前に湯浴みをしましょう。」
夕月はにっこり笑いながら春燕の手を取る。
「ゆっ湯浴みなんて…!私には勿体無いです!
水桶を貸していただければ自分で拭きますのでっ!」慌てて言う春燕。
その瞬間、夕月と紅花がピタリと止まった。
空気が一気に変わる。
「何言ってるんです?」夕月の声が低くなる。
「意味がわからないんですけど。」紅花の視線が鋭くなる。
春燕は青ざめ、思わず後ずさった。
(わ、私…なにか失礼なことを……!?)
謝ろうとした瞬間――
「もぉーーっ!そんなに緊張しなくてもいいんですよぉ〜!!」
夕月の声色が一変し、勢いよく春燕に抱きつこうとした。
「あっこら夕月!アンタは!くっつくな!!」紅花が間に入り、ぐいっと夕月を引き止める。
「遠い所から来て!!不安でいっぱいでしょう〜!!でも!
この夕月がいれば大!丈!夫!」大げさなポーズをとる夕月。
その明るさに、場の空気がようやく和らぐ。
「とりあえずそんな泥だらけで湯浴みしないとかないんで。」
紅花が、ぶっきらぼうに言う。どうやら、これが二人の素らしい。
「春燕様っ!今日は私が本邸でお世話しますので!なぁーんでも言ってくださいね〜!」
夕月は春燕の腕を組み、ぐいぐいと引っ張っていく。
「え、あの…あの……!」春燕は圧倒されるまま、屋敷の中へと連れて行かれた。
「雪麗は私と来て。こっち。部屋に案内するから。」
紅花が雪麗に目を向ける。
「しかし、お嬢様が…」私もお世話を…と口を開きかけた雪麗に、
紅花が一言。「いいから。」
紅花の獣のような鋭い視線に、雪麗は言葉を飲み込む。
春燕と雪麗。二人は離れ離れに案内され、それぞれの胸に、不安が静かに広がっていった。




