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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第九話「帳場 後編」3

第八話「帳場 後編」は3分割で更新していきます。これは3つ目です。

「それほど大切な場所なら……余計に、私が

 帳場にいていいのかしら……。」

春燕しゅんえんがぽつりと漏らした言葉に、帳場の空気が

ぴんと張りつめた。


一斉に向けられる使用人達の視線に、春燕は

思わず肩をすくめる。


「春燕様。」静寂を破ったのは懐正かいせい

 穏やかな声だった。

「先程の件のあと、帳場は凌偉りょうい様の命により

 専属以外の立ち入りが禁じられたのです。」


「……専属以外、立ち入り禁止……。」

春燕は息をのむ。


「しばらくは空気も重くなり、帳場はより一層、

 厳粛さを重んじるようになりました。

 そんな場所に――貴方様を迎え入れられたのは、

 凌偉様が信用され、信頼を置いておられる

 証なのですよ。」

懐正かいせいは柔らかく微笑んだ。


「貴方は何事にも真摯でいらっしゃる。

 帳場にも、帳簿にも、そして我々にも。

 まだ五日ですが、見ていればわかります。」

懐正かいせいが優しく言葉を継ぐ。


「どうか、自信をお持ちください。」

 春燕は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 心配していたのは自分だけでは

なかったのかもしれない。


「……はい。」小さく頷くと、

周囲の表情が和らいだ。


「この屋敷では、才能ある者にはすぐに

 機会が与えられ、磨かれていきます。」

懐正かいせいが湯気の立つ茶杯を手渡しながら言う。


「この季白きはくも、もとは倉庫番でしたが――

 計算の速さを見込まれて、凌偉様に

 引き上げられたのです。」


「そうなの?」春燕は目を丸くした。

季白きはくはまだ二十代前半。

若くして帳場を任されているのが

不思議だったからだ。


「琳家は人を見る目に長けていますからな。

 李白以外の者は、先代――凌偉様の御父上に

 見出された者たちです。」

 嘉衡が懐かしそうに言った。


「……凌偉様の、お父様。」

春燕は小さくつぶやく。


事故で亡くなった、と聞いている。


「先代は商才にも統率にも優れたお方で、

 皆が心から敬い慕っておりました。」

嘉衡かこうの声に、静かな敬意が滲む。


その場にいた全員が、懐かしい記憶を

思い出すように目を伏せた――そのとき。

広場の扉が音を立てて開いた。


空気が、一瞬で変わる。


誰もが咄嗟に口を閉ざし、姿勢を正す。

足音が静かに近づいてきて、凌偉が戻ってきた。


春燕は息を呑んだ。


彼が一歩踏み入れただけで、まるで風が

止まったように静まり返る。

まさに帳場の主――この空間のすべてが彼の

呼吸で動いているようだった。しかし…。


(……どうして、こんなに緊張しているの?)


突然の張り詰めた空気に春燕は不思議に思う。


(凌偉様のお父様の話をしていたから……?)

胸の奥がざわつく。


春燕は義姉が言ったことを思い出す。


 “凌偉は親を死なせた男だ”

 “親殺し”と、冷たく吐き捨てた言葉。


目の前の凌偉は、何の感情も浮かべず

帳場を見渡していた。その静かな表情が、

なぜか春燕の背筋をひやりと撫でていく。


「終わったのか?」凌偉の低い声が響いた。

「はっ、はいっ! 今日の分は

 すべて終わりました!」

 突然話しかけられ、春燕は慌てて立ち上がる。


「オレは本邸に戻る。貴方は?」

「わ、私も戻ります。本邸の厨房を

 手伝わなければ……。」

春燕は慌てて筆と竹簡を片づけ、凌偉の後に続く。


広間を出るとき、帳場の使用人たちが

一斉に頭を下げた。

その目は真っすぐ凌偉に向けられていたが、

彼には見えないところで――どこかに、

言葉にならない感情が滲んでいた。


敬意、畏怖、そして哀しみ。


そのどれもが、春燕にはまだ正体の

わからない“重さ”として伝わってきた。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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