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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第九話「帳場 後編」2

第九話「帳場 後編」は3分割で更新していきます。これは2つ目です。

 文禄ぶんろく凌偉りょういが去ると、

帳場の空気が少しだけ和らいだ。


春燕しゅんえん様が来てから、帳場の雰囲気が柔らかくなりましたね。」懐正かいせいが微笑む。


「本当にな。ようやくいつもの帳場に戻れて…ありがたい。」嘉衡かこうが背伸びをしながらつぶやく。


 季白きはくが湯を沸かし、茶杯を配っていく。どうやら一段落ついたようだ。

「一時はどうなることかと、冷や冷やしましたよ。」


「……何かあったんですか?」春燕は茶杯を受け取りながら尋ねた。

「聞いてないんですかい? 帳場での揉め事を!」

嘉衡かこうが目を丸くする。


 ――帳場での揉め事?


春燕の脳裏に、夕月ゆうづき紅花こうかが話していた噂がよぎる。

「押しかけてきた娘が帳簿を触った」という、

あの話だ。


「触ったどころじゃないですよ。」季同きどうが顔をしかめた。

「帳簿を勝手に紐解いて、順番まで並べ替えたんです。」


「ええっ!?」春燕は思わず声を上げた。


琳家の帳簿は、取引の種類ごとに紐の色で

分けられ、細かく整理されている。

それを崩すなんて、商いの秩序を壊すようなものだ。


「その方、商いの知識は……?」

「実家で少し手伝ってた程度でしたね。

琳家の帳場をなめていたんですよ。」

嘉衡かこうがため息をつく。


「元に戻すのが大変でしたよ。まるで、

 散らばった色付きの胡麻を一粒ずつ拾い

 分けるようで。」懐正かいせいがお茶を啜りながら言う。


「寝れなかったな、あの夜は……。」

誰かがぽつりと呟く。皆の顔が一斉に遠い目になる。

この精鋭たちがここまで言うほどだ。

どれほど大変だったのか、容易に想像できた。


「あと一日続いてたら、季同きどうさんの頭は

 爆発してましたね。」

季白きはくが笑い、場に小さな笑いが広がった。


「まあ!」春燕も思わず吹き出した。


 季同きどうは帳簿の整理担当。几帳面で仕事に

誇りを持つ彼が、そんな目にあったのなら

無理もない。春燕は彼らに心から同情した。


「その時の凌偉様は、それはもう……

 怒っておられましたよ。」

季白きはくがしみじみと言った。


「怒る…?」春燕は思わず聞き返す。

 凌偉が感情を表に出すなんて、想像がつかない。


「その娘を帳場に座らせて、淡々と商いの

 質問を続けられたんです。

 春燕様が初めて帳場にいらした時みたいに。」

懐正かいせいが語る。

「夕暮れから夜中まで。ただひたすら淡々と。

 娘が泣いて謝っても、答えられるまで

 終わらなかった。」


そして、夜がふけたころ――

凌偉は最後に、静かに、冷たく言い放った。


 『ところで――お前は誰なんだ?』


その瞬間、春燕の背筋にひやりと汗が流れた。

自ら婚約者と名乗り、凌偉に気に入られようと

帳場に押しかけた娘。けれど、その必死さは

凌偉には一顧だにされなかったのだ。


泣き喚きながら帰ったという噂は聞いていたけれど…。

いま、その裏にあった情景を知って、

春燕は言葉を失った。

自業自得とはいえ……どこか胸が痛んだ。


 それほどまでに、凌偉という人は

――帳場を、そして「信用」「信頼」というものを、何より重んじているのだ。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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