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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第八話「帳場 前編」4

第八話「帳場 前編」は4分割で更新していきます。これは4つ目です。

文禄ぶんろく。」低く響く凌偉りょういの声に、

すぐそばで帳面を整理していた男が静かに

顔を上げた。


「はっ。」

歳は六十ほどだろうか。

皺の刻まれた額と、知性と静かな威厳を併せ持つ。

背筋のまっすぐな姿が印象的だった。


「あとを任せる。」凌偉が短く告げる。


「かしこまりました。」

文禄ぶんろくは一礼し、すぐに手を止めた。


凌偉は春燕しゅんえんのほうへ視線を戻した。


「取引相手と打ち合わせがある。少し出る。」


「はいっ。いってらっしゃいませ…。」

思わず声が上ずる。


何が起こっているのか、頭の中は混乱の渦。

そのまま凌偉を見送り、振り向いた瞬間――


帳場にいた使用人たち全員の視線が

春燕に注がれていた。


「っ……!?」


そして、目が合うやいなや、一斉に深く頭を下げる。


「そっ、そんな! 皆様、頭を上げてくださいっ!」

慌てて手を振る春燕。


帳場の使用人――琳家の“頭脳”とも呼ばれる

精鋭たちが、自分に頭を下げている。


その光景に、心臓が跳ね上がった。


文禄が一歩前に出て、穏やかな笑みを見せた。


「春燕様。ご挨拶が遅れました。帳場番、

 番頭の呉文禄ご ぶんろくでございます。

 ようこそ帳場へお越しくださいました。」

さらに深く、礼をする。


「は、はい!春燕と申します!

 あの…凌偉様から帳場を見に来ても

 いいと伺って…まさか、こんな大事に

 なるとは思わず…!」


春燕の慌てる姿に、文禄ぶんろくはふっと笑った。


「ははは。春燕様、そんなに怯えずとも

 大丈夫ですよ。」

近くで帳面をまとめていた若い男が顔を上げた。


杜靖文と せいぶんと申します。

 先ほどの凌偉様とのやり取り――お見事でした。」

柔らかな口調に、周囲からも小さな笑い声が漏れる。

次々と他の使用人たちも名乗り、

春燕を誉め言葉で包み込む。


その優しさが、かえっていたたまれなかった。

(きっと気を遣ってくれてるんだわ…)


「いえ、そんな……。私なんか、帳場のお役に

 など到底立てません。

 凌偉様も、きっと…ご厚意で……。」

声が小さく震えた。


その瞬間、文禄の穏やかな眼差しが、

少しだけ真剣な色を帯びる。


「春燕様。」


春燕がはっとして顔を上げる。


「商売人にとって最も大切なのは“信用”です。

 嘘を言わず、真実を語ること。

 ――凌偉様は、春燕様を信じ、その帳場に

 迎えられたのです。厚意からでは任されません。」

言葉に力があった。


その場にいた使用人たち全員の瞳が、

同じ信念を宿している。凌偉への揺るぎない信用と信頼。


それが、今は自分に向けられている――。

胸の奥が熱くなった。


「……わかりました。お役に立てるよう、

 精一杯努めます。」春燕は深く、深く頭を下げた。


文禄の口元に、満足げな笑みが浮かぶ。

「よろしい。覚悟ができたのなら、

 明日から本格的にお教えしましょう。」


「はい。」

その言葉を胸に刻み、春燕は帳場を後にした。



 帳場を出ると、外で雪麗せつれい夕月ゆうづき

 紅花こうかが待っていた。


「お嬢様!大丈夫でしたか!?」

「顔が真っ青じゃない!」

「も〜!どれだけ緊張してたの!」


「……明日から、午前中は帳場で

 働くことになりました。」

春燕が小さく告げると、三人はそろって

「えぇっ!?」と声を上げた。


そのまま手を引かれ、承光楼しょうこうろうの厨房へ。


「はいっ、お茶!」夕月が差し出す。

「甘いもの食べて!」紅花が揚げ菓子を

 押しつけるように渡す。

「お嬢様……。」雪麗がそっと寄り添う。


春燕は茶杯を持ったまま、ぼんやりと座っていた。


「……お嬢様、本当に帳場に……?」

雪麗が信じられないというように尋ねる。


「うん。文禄様方が、

 明日から教えてくださるの。」


その名を聞いた途端、夕月が声を上げる。

「はあ〜! 文禄ぶんろく様って、琳家で一番の切れ者ですよ!

  坊ちゃんに計算の基礎を教えた方!

 坊ちゃんが一番信頼してる人なんです!」


「すごいっていうより……怖いわ。」

紅花が苦笑する。


「お屋敷のいろんな仕事場に行ったけど、

 帳場は空気が全然違うわ。」

春燕の手の中で、茶の表面がかすかに揺れた。


「そりゃそうよ。帳場の人たち、

 精鋭中の精鋭ですよ。普通の使用人なんて

 怖くて近づけないから。」


「紅花、それは前に書状を逆さまに置いて

 叱られたからでしょ?」

夕月の突っ込みに、紅花が「ちょっと!」と

声を上げる。小さな笑いが弾けた。


だが、笑いが消えたあと、春燕はぽつりと

つぶやいた。


「……私…凌偉様の“信用している”って気持ちを

 裏切りたくない。」

その声は震えていたけれど、確かな強さがあった。


雪麗が静かにうなずく。

「大丈夫です。お嬢様なら、きっとやれます。」

「そうですよ!」紅花が力強く言う。

「春燕様! この夕月がついてますから!

  坊ちゃんに酷いこと言われたら、

 箒持って飛び込んでいきます!」


「ふふっ、ありがとう。」

春燕は思わず笑ってしまう。


 “見事だ。”そう言われた時、自分自身が

認められて嬉しかった。

胡家では誰からも言われたことがなかったから。


「……頑張ろう。」


凌偉様のお役に立てるなら。

小さな声でそう呟いた春燕の瞳には、

確かな光が宿っていた。

次回の更新は【明日21時頃】です。

春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ

近づいていく時間を、

皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、

ブックマークや応援をしてもらえると励みになります。

感想もとても嬉しいです。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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