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水月鏡花―中華恋愛譚・静かに灯る初恋―  作者: 麻倉ロゼ
第一章「氷心、春に融く」

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第一話「始まり」4

 馬が道を駆け出すと、視界が一気に開け、

広大な田畑が眼前に広がった。

黄金色に光る小麦の畝、緑濃い水田、そして遠くに

続く林と池。馬の鼓動と風が春燕の髪を揺らす。


「ここ一帯は琳家の土地だ。」

凌偉の低い声が、風の音に溶けるように聞こえた。


「……すごい……!」春燕は小さく息を漏らす。

胸の奥に自然と高揚感が湧き、言葉にならない

感動が押し寄せた。


凌偉は何の反応も見せなかった。

無駄な言葉を挟まず、ただまっすぐ前を

見て馬を走らせている。

背中から伝わる鼓動は静かで、どこか揺るぎない。


(怒っていないのかしら……)

春燕は少し不安になる。

先ほどの無礼を、どう思っているのだろう。


しばらく迷った末、意を決して口を開いた。

「あのっ……先ほどは申し訳ありません。

 許しもなく勝手なことをしてしまいました。」


馬の蹄の音が続く中、短い沈黙があった。

そして、背中越しに落ち着いた声が返ってくる。

「なぜ謝る?」

春燕は一瞬、言葉を失った。


「手当も馬車の件も、貴方の配慮のおかげで

 怪我人が助けられた。貴方は正しい事をした。

 謝る必要はない。」

淡々とした声。

そこに怒りも嘲りもない。

ただ、事実を静かに告げるような口調だった。


それなのに、春燕の胸の奥にふっと

温かいものが灯る。


無表情の奥に、確かな思いやりが

あるような気がした。


(……この人は、怖い人なんかじゃ

 ないのかもしれない。)


馬の鼓動と風の音が重なり合い、田畑の香りが

流れ込む。

春燕は静かに息を吸い込む。


「琳家の土地って……こんなに広いのですね。」

思わず漏れた言葉に、凌偉はちらりと

目線を春燕に向ける。

「東から西まで、一日かけても回りきれない。」

「そんなに……!」

「四代前の当主がこの地を拓いた。

 荒野を田に変え、水を引き、田畑作った。

 商人としてではなく、まず“土を耕す者”としてな。」

語る声には誇りよりも、どこか静かな敬意が宿っていた。

「……今もその土地が、琳家を支えているのですね。」

春燕が言うと、凌偉はわずかに頷いた。


「土は裏切らない。働いた分だけ、必ず何かを返してくれる。」

春燕はその言葉を胸の中で繰り返す。


“働いた分だけ、必ず何かを返してくれる”


まるで凌偉の生き方をそのまま映したような

言葉に聞こえた。もう一度、春燕は目の前の

景色を見つめる。どこまでも続く大地の広がりが、

彼の心のように感じられた。



琳家の門構えは、まるで一国の城のようだった。

朱塗りの門は威風堂々とそびえ、日差しを受けて

眩く反射している。その両脇には、高く伸びた塀が

果てしなく続き、屋敷の規模の大きさを

容赦なく誇示していた。


春燕は思わず息を呑んだ。

門をくぐると、視界が一気に開ける。

広い石畳の広場には、整然と並ぶ灯籠が左右に続き、

昼の光に反射して幾何学的な美を描き出していた。


ー広場の奥、真正面に構える承光楼は、

まさに琳家の威信を示す建築物だった。


二階建ての楼閣は木目を生かした梁や柱が

見事に組み合わされ、屋根は曲線を描いて高く

反り上がり、軒先には小さな金色の装飾が

煌めいている。


楼閣内部は見えないものの、屋根の形や装飾の

精巧さから、きっと内部も豪華に違いないと想像できた。


広場の左右には六つの蔵が並び、整然とした

蔵の間を縫うように、香の煙が揺らめく厨房や

使用人たちの居住区があるようだ。


午前の取引が終わった今も、人々はまるで精巧な

歯車のように動き、屋敷全体が生き物のように

息づいている。

誰もが目的を持ち、無駄のない動きで働いていた。


春燕は改めて息を呑んだ。

これほどの規模と荘厳さ、そして緻密に

管理された屋敷が、一商人の家にあるとは――。


 馬を降り、門を抜けた広場まで来ると、凌偉がふと足を止めた。春の風が二人の髪を優しく揺らす。


「急な婚約の話で、戸惑いもあると思う。」

凌偉の声は落ち着いていた。


「家同士が決めたことだが、婚約も婚姻も、

 強制はしない。」


春燕は思わず顔を上げる。


その言葉には、思いやりと、どこか距離を

置くような冷静さが混じっていた。


「まずは半年。ここで過ごしてみて、

 それから決める。」

凌偉は淡々と続ける。そして彼は正面を向き、

まっすぐ春燕を見た。


「改めて――凌偉だ。よろしく。」


春燕の胸が小さく鳴った。


その瞳には感情の波が少ない。けれど、

不思議と嘘がなかった。


「はい。よろしくお願いします、凌偉様。」


静かな空気の中で、二人の声だけが響いた。


春の柔らかい日差しが二人の輪郭を照らす中、

どこからか燕の鳴き声が聞こえる。

それはまるで、これから始まる二人の運命を

祝福するかのように、広場の片隅を

一羽の燕が風に乗って走り抜けていった――。

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