第七話「星空」1
第七話「星空」は3分割で更新していきます。これは1つ目です。
凌偉が承光楼にある帳場を出ると、
あたりはすっかり暗くなっていた。
昼間の喧噪が嘘のように、屋敷全体は深い静けさに
包まれている。
帳場の扉を閉めると、ようやく一日の終わりを感じた。
竹簡の山に囲まれ、帳面の墨の匂いが
まだ指先に残っている。
取引の報告、運搬隊の遅延、米の相場の変動、
税の確認――どれも気を抜けば一瞬でほころぶ。
琳家の名を背負うということは、
常に「失えば終わり」という緊張の中に立つということだった。
だが今夜は、そんな責任の重さよりも、
なぜか胸の奥に静かな疲れがあった。
廊下を抜け、承光楼の外に出ると、夜風が頬を撫でた。
庭には必要最低限の灯籠の明かりしかなく、
闇の中に淡い橙色がぽつぽつと浮かぶ。
風に揺れる木の葉の音、遠くで鳴く虫の声、
そして池の水面が細やかに光を返す。
人の気配がほとんどない夜の庭は、まるで別の世界のようだった。
(もう部屋に戻るか……)
そう思いながら足早に庭園を横切ろうとしたその時、
凌偉はふと池のほとりに目を止めた。
橋のあたりに、人影が見える。
月明かりと灯籠の明かりが交じり合うその場所で、
白い衣がそっと揺れた。
誰かが欄干に寄りかかり、夜空を仰いでいる。
最初は夢でも見ているのかと思った。
だが、すぐに見覚えのある姿だと気づく。春燕だった。
彼女は静かに空を見上げている。
風に揺れる髪の隙間から、淡い光が覗く。
その横顔には、言葉では言い表せないほどの静けさがあった。
「…何をしているんだ?」
凌偉は思わず声をかけた。
「凌偉様!」
驚いた春燕が振り返り、小走りに彼のそばへ
駆け寄ってくる。
「こんな遅くまでお仕事を?」
「帳場にいた。…貴方は?」
「星を見ていました。あそこに、お母様の
星があるんです」
春燕は微笑みながら夜空を見上げる。
「お母様の星?」
「はい。お母様が亡くなる前におっしゃったんです。
『会えなくなっても星になって見守っている』って。
でも実際に空を見上げると、星が多すぎて
どれがお母様なのかわからなくて…。
だから、雪麗と一緒に選んだんです。」
恥じらうように言葉を区切りながら、春燕は続けた。
「どの星だ?」
凌偉は首を伸ばし、彼女の指先を追った。
「あの、一番輝いている星です。
ちょうどこの背の高い木からまっすぐ上に
上がった位置の…。」春燕が指差す。
「どこだ?」凌偉が目を凝らす。
不意に春燕の身体が凌偉に近づき、身体を、
肩と肩を寄せ合い春燕が凌偉に
わかるように指を差す。
その時、ふわりと花の香りがした。
彼女の髪先からだろうか。甘さと爽やかさが
混ざった、不思議に心を落ち着かせる香り。
横を見れば、吐息がかかりそうなほど近い。
(これは……近すぎじゃないか?)
街中でわざと身体を寄せてくる娘たちとは違う。
春燕はただ、純粋に「一緒に星を見せたい」
だけのように見える。
「……見つけた。」ようやく夜空に輝く一点を認め、凌偉は小さく息をついた。
春燕はほっとしたように微笑み、やがて肩を離した。
「春先はまだ冷えますね。風邪をひいてしまいます。
そろそろ戻りましょう。
おやすみなさいませ、凌偉様。」
「……ああ。」
そう答えると、春燕は小さく頭を下げ、
一人で本邸の方へ歩いていった。
その後ろ姿を、凌偉はしばらくぼんやりと
見つめていた。
春燕が去ったあと、肩に残るわずかな温もりだけが、
ひどく鮮明に意識される。
「死んだら星になって、見守っている……。」
彼女の言葉を思い出し、ぽつりと呟く。
見上げた夜空は、限りなく広がっているのに、
今は妙に重く感じられた。
まるで満天の星々が、自分を押し潰そうと
しているかのようだった。
次回の更新は【明日22時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が少しずつ
近づいていく時間を、
皆さまにも見守っていただけたら嬉しいです。
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