第一話「始まり」3
馬車は小刻みに揺れながら街道を進んでいた。
「お二人とも、そろそろ街が見えてきます。橋を渡ればすぐです。」御者が声をかける。
外を見ると、遠くに橋が見えた。
もう少しで琳家のある街に入る——その矢先、
急に馬がいななき、車体が止まった。
揺れが止まると同時に、春燕と雪麗は顔を見合わせる。
「どうしたのかしら?」
「……何かあったみたいですね。」
雪麗が窓の外を覗く。春燕もその肩越しに
目を向けると、橋の手前で人々が慌ただしく
動いていた。血を流して倒れる者、
泥に膝をついて誰かを抱きかかえる者——。
「怪我人がいる!」春燕は思わず声を上げ、
ためらいもなく馬車の扉を開けた。
「お嬢様!」
雪麗も慌てて後を追い、重たい薬箱を抱えて
飛び降りる。橋のたもとでは、数人の男たちが
慌ただしく声を掛け合っていた。
「どうされましたか?」春燕が駆け寄って声をかける。
「橋の修復工事をしてたんです。
ここ数日の大雨で土台が崩れて……。」
右腕を押さえながら男が顔を歪める。
「お嬢さん方、申し訳ないがこの橋は通れません。
奥の橋から——」
言いかけた男の言葉を遮るように、春燕が膝をつく。
「傷口を見せてください。手当をします!」
周囲が一瞬ざわめいた。
「だ、だめですよ! 服が汚れてしまう!」
「構いません。」春燕は淡々と答え、
泥にまみれた腕を掴んで傷を洗い始めた。
袖が濡れても気にする様子はない。
春燕は手早く流水で血を洗い流すと、
傷口を丁寧に消毒し、痛がる男を
落ち着かせるように優しく声をかけた。
「大丈夫、すぐに良くなりますから。」
泥にまみれた腕を押さえる男の手当を淡々と行い、
次々と怪我人に包帯を巻く。
その手際の良さに、周囲の作業員たちは息を呑んだ。
そのとき——。
遠くから、地を叩く蹄の音が近づいてきた。
数人の作業人が駆け寄ると、黒い馬に乗った
青年が姿を現した。
「流された者は?」
低く響く声が、ざわめきを一瞬で静めた。
「おりません! 全員無事です!」
報告を受け、青年は軽く頷くと、手綱を引いて
馬を降りた。その動き一つに迷いがなく、
静かな威圧感をまとっている。
春燕が手当をしている背後で、足音が止まる。
「若様、こちらの方々が手当を。」誰かが説明する。
振り向いた瞬間、目が合った。
「感謝します。琳家当主、琳凌偉と申します。」低く落ち着いた声。
凌偉は春燕の前に立ち、礼をした。
風に揺れる黒髪、整った面差し。
鋭くも穏やかな輪郭。長い睫毛の影が頬に落ち、
横顔が陽の光に淡く照らされる。
深い藍色の瞳は、まるで深海を閉じ込めたような
冷ややかさと、底に秘めた熱を同時に湛えていた。
彼の背は高く、細身ながら鍛えられた体が
衣の下にわずかに浮かぶ。歩くたびに、風が
自然と道を開けていくかのようだった。
春燕は思わず息を呑み、胸の鼓動が早まる。
「……っ! 琳……凌偉様……!?」
春燕は慌てて膝をつき、深く頭を下げた。
「わ、私っ……!!胡家の次女、胡春燕と申します!
こ、このような姿でのご挨拶、大変失礼いたします!」
凌偉がわずかに眉を動かす。
「えっ、婚約者殿!? こんなところに!?」
後ろから別の青年が驚いた声を上げた。
たちまち周囲の視線が春燕に集中する。
(なんて事…最悪だわ……)
足も裾も泥だらけ。服には皺、髪は乱れ、
顔にはきっと砂埃までついている。
(最初の印象が何より大事だったのに……)
春燕は冷や汗が止まらない。
「申し訳ありません。このような……汚れた姿で……。」震える声で言い、さらに深く頭を下げる。
そのとき——
春燕の頭上に影が落ちた。凌偉の手が伸びてくる。
(殴られる!?)
思わず目をぎゅっとつぶる。
だが、頬に痛みはこなかった。
凌偉は春燕の髪に絡んでいた小さな葉を摘み取り、
静かに地面に捨てた。
「他の者がすぐに来る。後のことは任せて、貴方は屋敷へ。」
冷静で穏やかな声。叱責の響きは一切なかった。
(汚らしい娘だと、そう思っているはずなのに……)
春燕は戸惑いを隠せなかった。
「あのっ…!怪我をされた方を馬車に。
出血のひどい方もおられます。
私なら歩けますから。」そう必死に訴える。
凌偉の瞳が一瞬だけ揺れた。
「……本気で言っているのか?」
「はい。大丈夫です、体力には自信があります。」
春燕は微笑んで答える。
「そんなこと、させられない。
馬車に乗らないというなら——俺の馬に乗ればいい。」
「えっ!? そ、そんな失礼な……!私、泥だらけです! 凌偉様の馬や服を汚してしまいます!」
「構わない。」
それだけ言い、手を差し出す。
「さあ。」
春燕はためらいながらも、その手を取った。
温かい。けれど、なぜか胸が締めつけられる。
馬に跨ると、すぐ後ろに凌偉が乗った。
背中越しに伝わる体温と、上品な香の匂い。
春燕の心臓が静かに跳ねる。
周囲では、作業員たちが目を丸くして囁き合っていた。
「凌偉様が誰かを馬に乗せたぞ!」
「まさか婚約者って……本当か?」
春燕はうつむき、頬が熱くなるのを感じた。
凌偉はそんな声に動じることもなく、ただ短く言った。
「あとは任せた。」
馬が駆け出す。風が頬を打ち、景色が流れていく。
後ろでは、凌偉の側近らしき青年が
雪麗に声をかけていた。
「お連れの方はこちらへ。
俺は楊愁飛。君は?」
「雪麗と申します。」
「雪麗か。君のご主人、面白い子だね。」
「お嬢様は、面白い子ではありません。」
淡々と返す雪麗に、愁飛はより一層機嫌良くなった。
「君は真面目そうな子だな。」
ニコリと笑って返し、馬を走らせ凌偉の後を追った。




