第三話「琳家」6
第三話「琳家」は少し長くて7分割で更新していきます。これは6つ目です。
庭園の案内が終わると、凌偉は春燕を連れ、琳家の敷地の最奥
――家族の居住区である本邸へと向かった。
庭園の華やぎが遠ざかり、石畳を踏む音だけが静かに響く。
朝露に濡れた苔や小石の間から、淡い陽光が差し込み、ゆらゆらと影を落としていた。
「ここが本邸用の厨房。池の向こうは叔父上達の居室。その反対側が貴方の部屋だ。」
凌偉の声は平坦で抑揚が少ないが、その端正な口調に春燕はどこか安心感を覚えた。
中庭の左手には、叔父・恭信と叔母・嬌の居室が並ぶ。
朱塗りの柱に黒瓦の屋根が映え、格子窓には雲や波を象った細やかな彫刻が施されている。
窓越しに見える小庭には、苔と小石で整えられた景色が広がり、
朝の光を受けた石灯籠が微かに輝いていた。
右手にある春燕の部屋は、白壁に朱柱、屋根は青緑の瓦で覆われ、
扉の前に蘭や菖蒲の鉢が置かれている。
部屋に差し込む光は柔らかく、窓から見える竹林や小池の景色を優しく包み込む。
春燕は思わず肩の力を抜き、ここが自分の居所となるのだという実感が静かに胸に広がった。
春燕はさらに左手に視線を移すと、本邸の厨房があることに気づいた。
大きな瓦屋根の建物からは、湯気と香ばしい匂いが立ちのぼっている。
中では使用人たちが慌ただしく働いていた。
火床の上では鍋がぐつぐつと煮え、湯気が白く立ち上る。
大釜で粥を炊く者、魚や肉を串に刺して火にかける者、野菜を洗い、
包丁で切る音がリズムを刻む。声を掛け合う声も交じり、活気に満ちていた。
「この厨房では、毎朝の朝餉だけでなく、夕餉や来客の膳も準備する。」
凌偉が淡々と説明する間も、春燕は目を輝かせ、使用人たちの働きぶりに見入った。
鍋を扱う者の腰つき、包丁の正確な動き、盛り付けを整える手の所作
――すべてが統率され、無駄がない。
厨房奥では、紅花や夕月のように若い女性使用人も働き、彼女たちの細やかな心遣いが、
琳家の料理の味を支えていることが伝わってきた。
「なんて素敵なの…。」
ポツリと呟く春燕を、凌偉は横目で静かに見つめていた。
「渡り廊下を抜けると書庫と俺の部屋。」
凌偉に促され、春燕は廊下へと足を踏み入れた。
両側には小さな庭が連なり、歩くたびに松や竹の葉が風に揺れる。
片側の庭は松林を配し、苔むした石の小径が朝の光を受けて淡く輝く。
もう片方は竹林と小さな池があり、池には蓮の葉が浮かび、
朝露が光を反射してきらめいていた。
どちらの庭にも小さな亭(東屋)が設けられ、
木陰に座れば風と水のせせらぎが心を静める。
廊下の終わりには書庫が控え、朱塗りの扉には龍や雲の文様が施されている。
中には竹簡や巻物が整然と並び、香木の穏やかな匂いが漂っていた。
その隣に並ぶのが凌偉の居室のようだ。
簡素で端正な造りは、まるで彼自身の性格を映しているかのようだった。
凌偉は振り返らず、淡々と告げた。
「離れもいくつかあるが、数が多い。必要ならその都度案内する。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
春燕は微笑み、胸の奥で新しい生活への期待をそっと膨らませた。
そのとき初めて、凌偉が真正面から彼女を見る。
「屋敷の中は自由に使っていい。わからないことがあれば、使用人達に聞けばいい。」
一見そっけないが、拒絶でも冷たさでもない。事実だけを伝える、落ち着いた声。
「はい。」春燕はにこりと笑い、こくりと頷いた。
「そろそろ八時だ。城門が開いて市場が始まる時間だ。
琳家の商売もそこから動く。俺は仕事に出るが……貴方はこれからどうする?」
彼女の答えに特別な期待をしている様子もなく、ただ淡々と尋ねる。
「午前中のうちに薪割りと庭の掃除をして……あと、厨房の仕事も覚えたいです。」
目を輝かせて答える春燕に、凌偉はわずかに視線を落とした。
「一ついいか?」
低く静かな声に、春燕は思わず背筋を伸ばす。
「はっ、はい!」
「それは使用人の仕事だ。朝も言ったが、貴方の仕事ではない。
ここでは好きに過ごしていい。自分のやりたいことをしてくれればいい。」
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
ただ変わらぬ調子で告げるその声が、逆に胸に響く。
「私の……やりたいこと……。」
春燕は一瞬考え、それから小さく笑った。
「ありません。皆さんのお仕事を手伝います。
誰かの役に立つことが、私のやりたいことです。」
凌偉は少しだけ目を細め、短く言う。
「……そうか。それなら好きにすればいい。」
もう十分に話した、と言わんばかりに背を向け、歩き出す。
「はい。行ってらっしゃいませ、凌偉様。」
春燕はその背中に深くお辞儀をして、静かに見送った。




