第三話「琳家」1
第三話「琳家」は少し長くて7分割で更新していきます。これは1つ目です。
かすかな光の中、春燕は目を覚ました。
瞼を開けた瞬間、飛び込んできたのは見慣れない天井。
淡い朝の光を受けて、天井の梁には繊細な彫刻が浮かび上がっている。
窓枠には花鳥の意匠が施されつ、光の筋がその輪郭を照らしていた。
「……ここ、どこ?」思わず小さく呟く。
昨日、琳家の本邸に迎え入れられた。
けれど緊張と疲れで、どんな風に案内されてきたのかも朧げだ。
寝台から身を起こすと、裾がふわりと揺れた。
衣の香りが鼻先をかすめる。
昨夜、夕月が用意してくれた寝衣だ。
薄桃色の絹地に、白い梅の花が織り込まれている。胡家では見たこともないほど上等な布だった。そっと袖を撫でると、指先に滑る感触がくすぐったい。
胸の奥で、まだ夢の中にいるのかと小さな不安がくすぶりながらも、どこか現実味を帯びてくる。
部屋の中が目に入る。磨き上げられた家具は
木目までもが艶やかで、床には緻密な織物が敷かれている。
棚に置かれた工芸品は、どれも触れるのが怖いほど立派で、
光を返すその佇まいは、まるで絵の中の世界のようだった。
恐る恐る寝台の窓を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でる。
「……寒い。」
薄く震えながらも、春燕は思わず深く息を吸い込む。
朝霧が、本邸の中庭全体を柔らかく包んでいる。
霧の向こう、池の水面がきらめき、時折、
魚が跳ねる音が聞こえた。
遠くでは鳥のさえずりが重なり合い、
静かでありながら賑やかな朝の息吹を告げている。
思わず胸に手を当てると、昨日の記憶が鮮明に蘇る。
初めて出会った婚約者。
整った顔立ち、堂々とした姿。
澄んだ声、落ち着いた空気。
「琳…凌偉様…。」そっと名を呟く。
「私……凌偉様のこと、ほとんど知らされてなかったけど……。」
目の前に広がるのは、想像もつかないほどの大邸宅。その規模も、豪奢さも、自分の知る世界とはあまりにも違っている。
「もしかして……とんでもない方の所に来てしまったのでは……。」
呟きは霧に溶け、春燕の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
「私を見て…がっかりされたかも…。」
不安が胸を過ぎるが、春燕は頭を二、三度振り払い立ち上がる。
「よし!」
♢
まだ朝日が昇る前、うっすらと空が白み始めた頃。
琳家本邸の奥深く、凌偉の書斎は静まり返っていた。
凌偉は朝早くから机に向かい、帳簿を確認し、来客予定を整理し、取引の不正や報告書に目を通している。
毎日午前八時、市が開くと同時に琳家の商いは動き出すが、この薄明の時間だけは、凌偉にとって唯一、外界の喧騒から離れて仕事に没頭できる静かなひとときだった。
「失礼します、若様…。」
遠くから足音が近づき、扉の前から声が響く。
「紅花か。どうした?」
凌偉は扉越しに答え、目を帳簿から上げる。
「あの…昨日来られた婚約者様が…その…」
紅花は言葉を濁し、視線を床に落とす。
昨日来た婚約者に何かあったのだろう。“今度の娘”はどうやら朝から邪魔をするらしい。
「わかった。今、行く。」
凌偉は書きかけの筆を置き、帳簿を閉じながら小さくため息をついた。




