4.死者と戯れる夢
「犬がタブー。訳ありね。……やっぱ、やめとく。みんなに嫌われてまで飼いたいとは思わない」
と、サキ子がお手上げと言わんばかりに万歳すると、仰向けにひっくり返った。頭を逆さまにしたまま、ガジュマルの大木の方を見つめる。
筵でぐるぐる巻きにされた隆盛の遺体が見えた。むろん顔も身体も見えない。わずかに足首が露出しているだけ。
「……い?」
サキ子は我が眼を疑った。てっきり酔いが回ったのだと思った。
わずかに筵が小刻みに動いたように見えたのだ。
半身を起こし、ものも言わず、隣のあやめの腕を叩く。
向こうを見ろと指で示した。
つられて、あやめはガジュマルの方を向いた。
筵が――隆盛の腹部にあたる部分が、やけにもっこりしている。
それどころか、モコモコと波打っているではないか……。
ひと呼吸おいて、二人は同時に金切り声を放った。
あやめは大事な三線を放り出し、取り乱した。
「どうしたんだよ!」
男たちは彼女たちの身体を支える。
サキ子の逃げ足は速かった。眼を剥いたまま這うようにして駆けていく。
訳もわからず、あやめも三線だけ拾って続いた。
「……おい!」
したたか酔っ払っていた夏雄と充も、このときばかりは恐怖が伝染し、訳もわからずあとを追った。
◆◆◆◆◆
今夜の殯の参加者は、あやめ一人だった。
なぜ夏雄たちがついて来なかったのか、思い出そうとしても思い出せない。むしょうに頭が疼いた。
津堅島では犬を飼うのはご法度だと、他愛もない話を交わしたのは憶えているが――。
後生山の藪の中。
浴衣姿のあやめは、広場の中央で正座し、無心で三線を奏でている。
ガジュマルの根元に向かって葬送歌を唄う。
恋人、隆盛の霊魂よ、遠いニライカナイへ無事たどり着けますように、と。
そして死者の復活を願う。
心優しかった隆盛よ、もとの姿を取り戻し、島へ帰っておいで、と。
古来より、沖縄におけるあの世――異界は、はるか東方、海の彼方にあるとされた。
したがって原初的な墓所は、海岸近くに設けられたのが常だった。
それだけではない。沖縄・奄美の島々は物理的に面積も狭すぎた。耕作地を割いてまで墓地にするのは、島民に迷惑がかかる。せめて死後は疎まれたくない。
よって人が死ぬと、遺体を海辺の崖や藪の中、樹上、洞窟に放置したり、風雨にさらし、自然に白骨化していくままにした。これを風葬という。
人間を自然のサイクルの一部として見なし、死後は元に還すという考えに基づく葬法である。
それなのに――。
あやめは三線を弾きながら、筵の塊を見た。
ない。いつの間にか筵は一枚の敷物として広げられているではないか。
その場に、青白いものが佇んでいた。
全裸の隆盛だった。
死んだはずの隆盛が、風呂から上がったばかりのように前も隠さず、薄い微笑みを浮かべ、こちらを見ている。なぜかバレリーナのように爪先立ちだった。
あやめは三線を構えたまま、微動だにできない。
眼を瞠る。
やけに白い腹部が印象的だった。
地獄の餓鬼そこのけに、ぽっこりと膨らんでいるのだ。
次の瞬間、ボン!と音を立て、隆盛の突出した腹が裂けた。
たちまち管状の臓物が外へ転げ落ちる。色とりどりの内臓が血とともにあふれ、下半身に垂れ下がった。
空洞になった赤黒い腹から、無理やりもぞもぞと、大きな何かが回転しながら出てきた。
なんと、血にまみれた人の顔。それも二つ。
夏雄と充の頭部ではないか。
若禿の夏雄は、顔じゅう血まみれになり、むしゃむしゃと口を動かしている。眼を血走らせていた。
充のメガネのレンズも血でべったりだ。これも何かを咀嚼しているらしく、顎を上下させている。
二人の青年は、隆盛の肉を内側から食いながら外に出ようとしているにちがいない。
隆盛は恨めし気にあやめを見つめている。
そのうち無表情のまま、手を差し伸べた。
「あ、あやめ……」と、隆盛はうめいた。ごぼごぼと気管で泡の弾ける音がする。腹から夏雄と充の頭部を露出させ、爪先立ちで近づこうとしていた。唸り声をあげて抗議する夏雄と充。狂気じみた眼で宿主を見る。まるで歪なオカヤドカリだ。「き、きっと、ニライカナイから還ってくるから……。そ、それまでこいつらに……、誘惑されるな」
あやめは前に駆け出し、隆盛に両手を伸ばした。
恋人の身体に触れる瞬間、視界が真っ白に染まった。
◆◆◆◆◆
「…………うう!」
あやめは勢い余って上半身を起こした。
眼の前に、見慣れた襖が見える。
離れの寝室であることに気づいた。壁の柱時計は5時前を指していた。
寝間着をまとった全身が汗でぐっしょり。嫌な夢にすぎなかったのだ。
昨夜、後生山から一目散に帰ってきて、ろくに化粧も落とさず、そのまま横になったのを思い出した。
それほど飲まなかったはずなのに、今朝はひどい宿酔が残っている。頭がズキズキした。
あやめは額を揉みながら、左の縁側に眼をやった。
雨戸を閉め忘れたらしい。ガラス戸のままで、中庭も丸見えだ。しかも錠すら閉めていないとは、だらしなさすぎる……。
空は暗く曇り、小雨が降っていた。ハナミズキとソテツの木の前に干した洗濯物がずぶ濡れだった。
――やっちまった、と毒づいた。
同い年の夏雄や充だけではない。このところ、傷心の見舞いと称し、島の男たちが頻繁に家を訪ねてくるようになった。
隆盛が死んで以来である。ましてや恋人の通夜や葬儀の日ならいざ知らず、人さまの中庭に忍び込み、寝室をのぞかれたこともあったのだ。
窓越しに、はだけた寝間着姿を誰かに見られたのではないか。誘ったつもりはないが、もしもガラス戸を開けられ、侵入されたりでもしたらと思うと慄然とした。自身の隙だらけの神経に、今さらながら怒りを憶える。
津堅島にとってあやめの存在は、老いも若きも独身男たちの憧れの的であった。
隆盛がいなくなった今、どうにかしてその座を射止めようと、あの手この手で近づこうとしているのは気づいていた。場合によっては、それこそ力づくでもやりかねない。
あやめは両手で頬を叩き、今度こそ戒めた。