「目覚め」
さくら患者会に参加し始めてから、3ヶ月が過ぎた。春の柔らかな日差しが差し込む会議室で、美穂は自分の居場所ができたことを感じていた。
「今日は、どなたか最近の出来事を話してくださる方はいらっしゃいますか?」
世話人の岡田の穏やかな問いかけに、美穂は少し迷った後、そっと手を挙げた。
「私……話してもいいでしょうか」
深呼吸をして、美穂は話し始めた。
「先週、休職中の職場に、ご挨拶に行ってきました」
会場の空気が、少しだけ引き締まる。皆、美穂の言葉に静かに耳を傾けていた。
「ドアを開けるまでは、本当に怖かったです。どんな顔をされるだろう、もう私の居場所はないんじゃないかって。でも……」
美穂の声が少し震える。
「みんなが、『待ってたよ』って言って、温かく迎えてくれたんです。その時、ああ、私には帰る場所があるんだって、心から思えました」
話し終えると、会場から温かい拍手が起こった。
会の後半、小グループでの対話の時間。美穂のグループには、初参加だという若い女性がいた。彼女は俯いたまま、か細い声で言った。
「私、まだ自分の気持ちがぐちゃぐちゃで、何を話していいか分からなくて……」
その姿に、かつての自分を重ねた美穂は、思わず声をかけていた。
「大丈夫ですよ。私も最初は、自分の気持ちを言葉にするのがすごく難しかったですから」
美穂は、初めてこの会に参加した時の不安や、少しずつ心を開いていった過程を、自分の言葉でゆっくりと語った。話しているうちに、美穂は不思議な感覚に気づいた。
(私の経験が……この人の心を、少しだけ軽くしているのかもしれない)
若い女性の表情が、次第に和らいでいくのが分かった。
会が終わった後、岡田が美穂に近づいてきた。
「美穂さん、今日のあなたの話、とても素晴らしかったわ。特に、新しく来た方への寄り添い方は、見ていて胸が熱くなった」
「いえ、そんな……」
「美穂さん、『意図的ピアサポート』という言葉を聞いたことはある?」
美穂は首を傾げた。
「それは、私たちのように同じ経験をした者が、ただ寄り添うだけじゃなく、お互いの経験を『意図的』に活用して、共に回復し、成長していくための関わりのことよ。あなたの経験談は、他の誰かにとって、どんな専門家の言葉よりも力を持つことがある。今日、あなたはそれを自然に実践していたの」
岡田の言葉は、美穂の心に深く響いた。自分のあの苦しかった経験が、誰かの支えになる。その発見は、雷に打たれたような衝撃だった。
「岡田さん……もっと、そのことについて教えてください」
家に帰る道すがら、美穂は幼い頃からの自分を振り返っていた。
両親の期待に応えようと、常に「良い子」であろうとしたこと。会社では、誰よりも頑張って結果を出さなければと、自分を追い詰めてきたこと。常に誰かの期待という鎧を身にまとい、その重さに潰されてしまったのだ。
(でも、もういいんだ)
街灯に照らされた道を歩きながら、美穂は静かに涙を流した。
(これからは、誰かのためじゃない。自分の足で、自分の人生を歩いていこう)
そして、その道は、孤独な道ではない。
(私の経験には意味があった。この痛みこそが、誰かと繋がるための架け橋になるんだ)
夜、日記に決意を記した。
『今日、新しい光を見つけた。私の苦しみは、無駄ではなかった。それは、同じように苦しむ誰かを支えるための力になる。これからは、もっと積極的に自分の経験を語ろう。それが、私の新しい道しるべだ』
ペンを置き、窓の外に広がる夜空を見上げる。星々が、以前よりも力強く瞬いているように見えた。美穂の人生の、第二章が始まろうとしていた。