「新たな扉」
美穂は、地域の精神保健福祉センターの前に立ち、何度か深呼吸を繰り返した。デイケアの担当者に勧められて予約はしたものの、ガラス張りのドアの向こうは、まだ自分にとって未知の世界だった。
(大丈夫。ここに来られただけで、大きな一歩なんだから)
自分に言い聞かせ、震える手でドアを開けた。
相談室で待っていたのは、田村と名乗る柔和な表情の中年女性だった。
「佐藤さん、よくいらっしゃいましたね」
その穏やかな声に、張り詰めていた美穂の心が少しだけほぐれる。
「あの……私、うつ病で入院していて……退院したばかりなんですけど、これからどうしていいか分からなくて……」
言葉に詰まりながらも、美穂は必死に自分の状況を説明した。社会復帰への焦り、家族との関係、拭えない不安。田村は黙って頷きながら、美穂の話に耳を傾けていた。
一通り話し終えると、田村が静かに言った。
「佐藤さん、一人で悩まずに、こうして相談に来てくださったこと、それが何より素晴らしい一歩ですよ」
その言葉に、美穂の目頭が熱くなった。
「実は、佐藤さんと同じような経験をされた方々が集まる場所があるんです。『さくら患者会』といって、月に2回、ここの会議室で開かれています」
田村は一枚のパンフレットを美穂に手渡した。
「患者会……ですか?」
「ええ。同じ痛みを分かち合える仲間と出会うことで、見えてくるものがきっとあると思います。もし興味があれば、一度覗いてみてはいかがですか」
数日後、美穂はパンフレットを握りしめ、再びセンターを訪れていた。会場のドアの前で、中から聞こえる話し声に足がすくむ。帰ろうかと思ったその時、ドアが開き、中から出てきた50代くらいの女性と目が合った。
「あら、初めての方かしら? 私は世話人の岡田です。さあ、どうぞ中へ」
岡田に促され、美穂はおずおずと会場に足を踏み入れた。円形に並べられた椅子には、様々な年代の男女が座っている。空いていた席に腰を下ろすと、心臓が早鐘を打っていた。
会が始まり、参加者が順番に自己紹介と近況を語り始めた。美穂の番が来た時、緊張で声が震えた。
「あ、あの……佐藤美穂と、いいます。今日、初めて参加しました……よろしくお願いします」
それだけ言うのが精一杯だった。岡田が「美穂さん、ようこそ。無理に話さなくても大丈夫ですよ」と優しく声をかけてくれた。
会が進むにつれ、参加者たちの口から語られる言葉に、美穂は引き込まれていった。
うつ病との長い闘い、家族との軋轢、社会からの孤立感。そのどれもが、自分一人が抱えていると思っていた苦しみと重なった。
(私だけじゃなかったんだ……みんな、同じように苦しんでいたんだ)
ある40代の男性の言葉が、特に心に響いた。
「最初は、自分だけが世の中から取り残されたような気がしていました。でも、ここに来て、同じ経験をした仲間と出会って……ああ、俺は孤独じゃないんだって、初めて思えたんです」
その言葉に、美穂の頬を静かに涙が伝った。
会の終わり、岡田が美穂に尋ねた。
「美穂さん、何か話せそうですか? 一言でもいいんですよ」
美穂は少し躊躇したが、小さな勇気を振り絞って口を開いた。
「あの……まだ、自分のことをうまく話せません。でも……」
一度言葉を切り、俯く。しかし、会場の温かい眼差しに背中を押されるように、顔を上げた。
「でも、皆さんの話を聞いて……私も、一人じゃないんだって……思えました。ありがとうございます」
その拙い言葉に、参加者たちから温かい拍手が送られた。
患者会を後にする時、美穂の心には、入院前の希望とは質の違う、確かな温かさを持つ灯がともっていた。
(私は一人じゃない)
この日、開かれた新たな扉の先に、彼女の人生を大きく変える道が続いていることを、美穂はまだ知らなかった。