「光と影」
退院の日、病院の門を出ると、両親が笑顔で迎えてくれた。しかし、久しぶりに浴びる外の太陽はあまりに眩しく、車のクラクションや雑踏の音が、防御なく心を突き刺してくるようだった。
「おかえり、美穂」
母親の優しい声が、どこか遠くに聞こえる。自宅に戻っても、自分の部屋のはずなのに、まるで他人の家のように落ち着かなかった。机の上には、入院前に使っていた手帳が置かれたままになっている。ページをめくると、びっしりと書き込まれた会議や締め切りの文字。そして、最後のページに震える字で書かれた「休職」の二文字が、深く胸に突き刺さった。
退院後の生活は、美穂が想像していた以上に困難だった。朝、目が覚めても、体が鉛のように重く起き上がれない。両親は気を遣い、過剰に干渉しないようにしながらも、その心配そうな視線が逆にプレッシャーとなった。
(このままじゃダメだ。早く社会に戻らなきゃ)
焦る気持ちとは裏腹に、外に出る勇気は湧いてこない。ある日、意を決して近所のスーパーへ買い物に出かけたが、人混みの中で急に呼吸が浅くなり、パニック発作を起こしかけて慌てて逃げ帰った。
そんな日々の中、家族との間に見えない溝が生まれ始めた。
「美穂、そろそろ仕事のことはどうするんだ?」
夕食の席で、父親が意を決したように切り出した。「会社からも、復職の意思を確認したいと連絡があってな」
「……まだ、わからない」
「でも、いつまでもこのままではいられないだろう」
父親の声にいらだちが混じる。
「私だって、わかってる! でも、できないの!」
美穂の声が震える。母親が「あなた、美穂を追い詰めないで」と仲裁に入るが、気まずい空気が食卓に流れた。自室に逃げ込んだ美穂は、再び深い抑うつの中に沈んでいった。
(私……もう元には戻れないのかもしれない)
絶望的な気持ちでベッドに横たわっていた時、ふと、入院中に出会った看護師、山口愛の言葉を思い出した。
……回想……
白い廊下。点滴スタンドを押しながら歩く美穂に、山口看護師が付き添ってくれていた。
「佐藤さん。退院後のこと、考えたりする?」
「……怖いです」
「うん、そうだよね。でもね、覚えておいてほしいことがあるの。リカバリーの道は、真っ直ぐじゃない。時には後戻りしたり、立ち止まったりもする。でも、それでいいのよ」
山口は優しく微笑んだ。「大切なのは、自分のペースを守ること。そして、困ったときは一人で抱え込まず、誰かに助けを求めること。絶対に、一人で戦おうとしちゃダメだよ」
……回想終わり……
(そうだ……一人で抱え込まなくていいんだ)
その記憶が、美穂に小さな勇気を与えた。
翌日、美穂はリビングにいる両親の前に座った。
「お父さん、お母さん……話があります」
両親は驚いたように娘を見た。
「私ね、まだ自信がないの。焦る気持ちばかりで、どうしていいか分からない。だから……もう少し時間をください。そして、どうすればいいか、一緒に考えてほしい」
震える声で訴える娘の姿に、両親はハッとした。
「……すまなかった、美穂」父親が深く頭を下げた。「俺たちは、お前を焦らせることばかり考えていた」
「あなたのペースでいいのよ」母親が涙ぐみながら言った。
その日、家族は初めて本当の意味で向き合えた気がした。
それから美穂は、自分のペースで社会復帰への一歩を踏み出した。まずは、病院のソーシャルワーカーに相談し、デイケアに通い始めた。同じような経験を持つ仲間と出会い、自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになった。
回復は一直線ではない。良い日もあれば、悪い日もある。しかし、美穂はもう一人ではなかった。家族の理解とデイケアの仲間という支えを得て、彼女の新しい日常が、ゆっくりと、しかし確実に形作られ始めていた。