「閉ざされた世界」
両親の献身的な支えも虚しく、美穂の状態は日に日に悪化していった。ある朝、彼女は目を覚ました瞬間から激しいパニック発作に襲われた。
「ダメ……呼吸が……できない……」
胸を掻き毟り、ベッドの上で身をよじる。母親が慌てて駆け寄る声が、まるで水の中から聞こえるように遠い。視界が急速に白んでいき、美穂の意識は深い闇に沈んでいった。
次に目を開けた時、病院の無機質な蛍光灯が目に刺さった。
「気がつきましたか」
白衣を着た初老の医師が、穏やかに微笑んでいる。
「ここは……?」
「みどり病院です。救急搬送されてこられました」
医師は丁寧に、しかし事務的に説明を始めた。うつ病の重症化、自宅療養の限界、そして……入院の必要性。
「安全な環境で治療に専念するため、閉鎖病棟への入院をお勧めします」
その言葉は、冷たい宣告のように美穂の胸に突き刺さった。
(閉鎖病棟……? 私が……?)
言葉を失った美穂に、医師は「ご家族と相談してください」と言い残し、部屋を出ていった。入れ替わりに入ってきた両親の顔は、憔悴しきっていた。
「嫌だ……」美穂はかすれた声で呟いた。「そんなところには行きたくない」
母親が美穂の手を握る。「でも、美穂。このままじゃ……」
「分かってる!」美穂の声が震えた。「でも、そこに行ったら、私はもう終わりなんだ……」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
翌日、父親が切り出した。
「私たちも一晩中考えた。正直……お前にそんな場所に入ってほしい親がどこにいる。でもな……私たちには、もうお前を守ってやれる力がないんだ」
父親の声が詰まる。美穂は、自分のことで両親がどれほど苦しんでいるかを初めて痛感した。
(私がいなくなれば、みんな楽になるんだろうか……)
その思いが、最後の抵抗を打ち砕いた。
「……分かったよ」美穂は視線を床に落としたまま、呟いた。「入院……する」
両親は黙って娘を抱きしめた。その腕の中で、美穂は全てを諦め、小さく震えていた。
閉鎖病棟の重い扉が閉まる音が、美穂の人生の一つの章の終わりを告げた。
規則正しい生活。朝6時の起床、投薬、グループセラピー。最初の数日間、美穂は自分がここにいる現実を受け入れられなかった。
入院して数日後、診察室に呼ばれた。
「佐藤さん、こんにちは。担当の田山です」
白衣を着た中年の男性医師、田山が挨拶をした。しかし、彼の顔が以前の職場の上司、中村部長の顔と重なって見えた瞬間、美穂の体は硬直した。
「佐藤さん、気分はいかがですか?」
田山の声が、中村部長の叱責のように聞こえる。頭の中が混乱し、額に冷たい汗が滲んだ。
「すみません……企画書は、まだ……」
「企画書? 佐藤さん、ここは病院ですよ」
田山の困惑した声も、歪んで耳に届く。美穂は虚ろな目で頷き、意味の通じない言葉を繰り返した。
その日の夕方、医師たちのカンファレンスで田山は報告した。
「佐藤さんは、現実と過去の記憶が混同しているようです。私を以前の上司と認識し、会話が成立しませんでした。統合失調症の可能性を視野に入れ、治療方針を再検討する必要があります」
この誤った見立てが、美穂をさらなる苦しみの淵へと追いやることになる。
田山医師は、美穂に複数の抗精神病薬を処方した。リスペリドン、オランザピン、クエチアピン。薬は次々と追加され、美穂の体は重い副作用に蝕まれていった。
激しい眠気で一日の大半をベッドで過ごし、起きている間も頭は濃い霧に包まれたようだった。ある夜には、廊下を歩く看護師の足音が巨大な怪物の接近のように聞こえ、天井の染みが人の顔に見える幻覚に怯えた。
「せん妄状態ですね。薬を追加しましょう」
田山医師はハロペリドールを追加したが、状態は悪化する一方だった。手の震えが止まらなくなり、常に口からよだれが垂れ、激しい便秘に苦しんだ。
鏡に映った自分の姿は、変わり果てていた。やつれた顔、虚ろな目、痩せこけた体。
(私……どうなってしまったの……)
涙さえ、薬のせいか感情を伴わず、ただ頬を濡らすだけだった。
数ヶ月が過ぎ、季節が秋に変わる頃、事態は転機を迎える。田山医師が異動となり、新しい主治医として田中健太郎医師が着任したのだ。
田中医師は美穂のカルテと、衰弱しきった彼女の姿を見て、深く眉をひそめた。
「これは……あまりに薬が多すぎる」
田中はまず、抗精神病薬の大幅な減薬を断行した。薬が抜けていく過程で、美穂は激しい離脱症状に苦しんだが、看護師の山口愛らが懸命に支えた。
少しずつ意識がはっきりしてきたある日、田中医師は美穂に語りかけた。
「佐藤さん、辛い経験をさせました。あなたの本来の病名は、重度のうつ病です。統合失調症ではありません。これからは、正しい治療を一緒にやっていきましょう」
その言葉に、美穂の目から久しぶりに温かい涙が溢れた。
田中医師の適切な治療と、山口看護師の献身的なケアのもと、美穂は少しずつ回復への道を歩み始めた。開放病棟への移動が決まった日、彼女は田中医師に尋ねた。
「先生、私……なぜあんなにたくさんの薬を飲まなくてはならなかったのでしょうか」
「それは……」田中医師は言葉を選んだ。「我々医療者が、あなたの心の声よりも、マニュアルや症状リストを優先してしまった結果です。あなた一人の責任ではない。私たち全体の課題です」
その誠実な言葉に、美穂は少し救われた気がした。
開放病棟での生活が始まると、美穂は病院の図書室で一冊の本と出会う。『リカバリーへの道のり - 元うつ病患者の手記』。その本をきっかけに、美穂は自分の経験には意味があるのかもしれないと、微かな光を見出し始めていた。そして、同じように苦しむ他の患者たちの存在に目が向くようになった。
(私にも、誰かの力になれることがあるかもしれない)
それは、彼女の人生の新しい扉が開いた瞬間だった。