「崩壊」
1998年6月、東京・新宿。
朝7時、佐藤美穂(28歳)のアパートの一室。
けたたましいアラームが鳴る前に、美穂は目を覚ました。昨夜も、浅い眠りを繰り返しただけだった。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下の隈が黒く縁取られている。
(大丈夫、今日もやれる)
自分に呪文のように言い聞かせ、冷たい水で顔を洗った。
オフィスビル、9階。
営業部の自席で、美穂はパソコンの画面を睨みつけていた。数字の羅列が、意味を持たない記号のように目の前を滑っていく。
「佐藤さん、昨日の報告書、まだかな?」
上司の声に、心臓が跳ねた。肩がびくりと震える。
「あ、はい。今、最終確認をしています」
声が上ずる。焦りと不安で胸が締め付けられ、指先が冷たくなっていく。最近、決まってこうだった。
昼休み、社員食堂。
「美穂ちゃん、顔色悪いよ。ちゃんと食べてる?」
同期の木村が心配そうに覗き込む。
「うん、ちょっと夏バテかな」
作り笑顔を浮かべるが、喉の奥に鉛がつまったようで、食欲は全くなかった。サラダに少しフォークをつけただけで、席を立った。
午後3時、会議室。
重要顧客との商談結果を報告するため、美穂は資料を手に演台に立った。
「えっと、今回の商談では……」
突然、次の言葉が消えた。思考が停止し、心臓が耳のすぐ側で激しく鳴り響く。
(息が、できない……どうして)
会議室がぐらりと揺れ、同僚たちの顔が歪んで見えた。
「佐藤さん? 大丈夫ですか?」
上司の声が、水の中から聞こえるように遠い。空気が重く体に纏わりつき、膝が意思に反して震えだした。
(動けない、助けて)
心の中で叫んだが、唇は乾ききって開かない。次の瞬間、視界が急速に白んでいき、美穂は床に崩れ落ちた。冷たい床の感触だけが、やけに鮮明だった。
気づくと、見知らぬ白い天井が目に入った。病院の診察室だ。
「佐藤さん、あなたの症状は……」
医師の唇が動いている。だが、その言葉は鼓膜を揺らすことなく、鈍い衝撃となって脳に直接届いた。
「うつ病です」
その一言が響いた瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。手が小刻みに震え始める。
(うつ病? 私が?)
ありえない、何かの間違いだ。けれど、医師の目は静かに現実を告げている。鉛のような沈黙が部屋を支配し、自分がこの世界から切り離されていくような途方もない孤独感に、ただ圧倒されるしかなかった。
「……しばらく休職して、治療に専念してください」
医師の言葉が、遠くでこだまする。
その夜、美穂のアパートの部屋。
窓の外に広がる東京の夜景が、まるで自分を拒絶しているかのように冷たく輝いていた。未来が、出口のない暗いトンネルのように思えた。
携帯電話が鳴り、会社の上司の名前が表示される。電話に出る勇気はなかった。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。なぜ私が。その問いだけが、壊れたレコードのように頭の中で繰り返され、静かに、しかし確実に、美穂の世界は崩壊を始めていた。
休職から1週間。美穂の日々は、ベッドと居間を往復するだけになった。ある朝、彼女は勇気を振り絞り、近所のコンビニへ向かった。外の空気に触れた瞬間、道行く人々の視線が自分に突き刺さるような錯覚に陥る。
(みんな、私が働けなくなったことを知っているんじゃないか)
汗ばむ手でコンビニの扉を開ける。商品を手に取ろうとするが、無数の選択肢を前に思考が停止した。
「お客様、大丈夫ですか?」
店員の声に我に返り、慌てて適当なパンを掴んでレジへ向かう。帰り道、突然激しい動悸に襲われた。息が切れ、視界がぼやける。
(ここで倒れたら……)
必死にアパートのドアにたどり着き、鍵を閉めた瞬間に床へ崩れ落ちた。
「もう……外には出られない」
その言葉が、静まり返った部屋に虚しく響いた。
1ヶ月後、心配した両親が訪ねてきた。母親は何も言わず、痩せた美穂の体を強く抱きしめた。その温かさに、堪えていた涙腺が決壊する。
「ごめんなさい……こんな私で……」
かすれた声で呟くと、父親が無言で背中に手を置いた。その日から、両親が交代でアパートに滞在するようになった。
ある晴れた日、母親に促され、近所の公園まで散歩に出た。初夏の柔らかな日差しが頬を撫で、久しぶりに吸い込んだ新鮮な空気が、少しだけ心を軽くした。
「ねえ、美穂」ベンチに座ると、母親が静かに話し始めた。「あなたが生まれた時のこと、覚えてる?」
「覚えてるわけないでしょ」
「あなたね、予定日より1ヶ月も早く生まれたの。小さくて、弱くて。お医者様には『難しいかもしれない』って言われたけど、あなたは諦めなかった。毎日少しずつ、でも確実に強くなっていったわ」
母親の目に涙が光る。
「だから、今回も大丈夫。あなたには、乗り越える力がある」
その言葉が、凍てついた美穂の心に、小さな温かい染みを作った。その夜、美穂は久しぶりに日記を開いた。
『今日、初めて希望というものを感じた気がする。まだ小さな光だけど、でも確かにそこにある』
しかし、この小さな光が、これから訪れるさらに深い闇の前触れであることを、彼女はまだ知らなかった。