プロローグ:「希望の灯火」
東京国際フォーラム、2010年9月15日。
会場に、静かな熱気が満ちていた。千人を超える参加者が、息を潜めて壇上の一点を見つめている。スポットライトが円を描き、そこに立つ一人の女性を照らし出した。
佐藤美穂、40歳。黒のスーツに身を包み、引き締まった表情で聴衆を見渡す。その瞳の奥には、長い道のりを経てなお消えない、微かな不安の影が揺らめいていた。
「皆さま、本日は第一回全国ピアサポート会議にお越しいただき、誠にありがとうございます」
マイクを通した美穂の声が、凛として会場の隅々にまで響き渡る。
聴衆の中には、様々な眼差しがあった。
期待に目を輝かせる、若いピアサポーター。
懐疑的な視線を崩さない、年配の精神科医。
温かな微笑みを浮かべ、静かに頷く元患者たち。
そして最前列には、美穂を支え続けてきた仲間たちの姿があった。山口愛は目に薄く涙を浮かべ、中村は手元のノートに何かを書き留めている。田中医師は腕を組み、真剣な表情で聞き入っていた。
美穂は一度、目を伏せて息を吸う。その瞬間、彼女の中で時間が逆流を始めた。
12年前、うつ病で心が折れ、絶望の淵に立たされていた自分。
閉鎖病棟のベッドの上で、ただ終わりを願っていた日々。
退院後、社会の歯車に噛み合わず、孤独にもがいていた時間。
そして、小さな患者会で初めて自身の経験を語った日の、張り裂けそうな鼓動。
記憶の断片が、万華鏡のように心の中で像を結ぶ。
「私たちは、長い間、孤独でした」
美穂の言葉に、会場のざわめきが完全に静止した。
「でも、もう独りではありません。私たちには仲間がいます。そして、その仲間と共に、新しい未来を築く力があるのです」
声に、力が宿る。かつての痛みと苦しみが、研ぎ澄まされた刃のように、今この瞬間の勇気に変わっていく。
会場の空気が、少しずつ熱を帯びていく。懐疑的だった視線が和らぎ、期待に満ちた表情が広がっていく。
美穂は、聴衆一人一人の顔を見つめた。そこに、かつての自分の姿が重なる。
(誰もが、光を探している。この瞬間のために、私は歩いてきたんだ)
美穂は再び深く息を吸い、これまでの12年間の軌跡と、これからの展望について語り始めた。
壇上の彼女の姿は、さながら闇を照らす灯火のように、会場全体を確かな光で満たしていった。