侵食
「なあ、知ってるか?行方不明事件の話」
同級生で友人の鶴岡が昼食を食べながら話しかけてきた。
「何のことだ?」
それは俺にとって、全く聞き覚えのない物であった。
「何言ってんだよ。ここ最近ずっとテレビで騒いでるじゃん。あれだよ、あれ」
「あー、なんか聞いた事あるような……」
「マジかよ。ずっとやってるのに」
「いや、だって、もうすぐ中間テストだぞ。勉強しなきゃ、ヤバいだろ」
もう7月の中旬で中間テストが後り数日にまで迫っていた。だからテレビやスマホを見る時間すら、惜しいくらいだ。
「いや、俺は一夜漬け派。ギリギリまで遊び尽くして、最後に頑張るんだ。じゃなくて!行方不明の時間なんだって!」
「はいはい。それで行方不明って、何なんだ?」
「だから、何人もここら辺で行方不明になっているんだよ。しかも、その内の一人は、この高校の生徒なんだってよ」
「それ、本当か?全然聞かないよ?」
「別学年だからじゃないか?一昨日からずっと帰ってないらしい」
「誘拐とか?」
「そこは分かんねえけどよ。……誘拐するとして、何で何人も誘拐する必要があるんだ?」
「確かに身代金とかを貰うなら一人に絞った方が効率的だよな」
「そうそう。それとさ、こっちが一番、面白い話でさ」
「今の以上に?」
「そうそう。行方不明になった人たちは全然見つからないんだけど……。夜になったら聞こえてくるらしいんだよ」
鶴岡がわざとらしく言葉を区切ってニヤリと笑って言った。
「いなくなった奴らの声が……」
あからさまな驚かしの言葉に、逆に冷めてしまう。
「はあ……。どこの子供騙しの怪談話だ。そんなのに怖がらせられるほど、小さくないわ」
「つまんないな。せっかく面白い話を仕入れてきたのに」
「ご苦労様。そんなことよりも中間テス……」
「ああ!俺、用事思い出したわ!じゃ、先に行くわ」
俺の言葉を遮って、たったかたと教室から走り去った。
「まったく、あいつは……」
そんな調子の良い背中を見送って、ため息をつく。いつもあんな感じの憎めない奴だ。それに中間テスト目前になれば、きっとノートでも見せてくれと頼まれるのだろう。
その時の為に少しでも分かりやすく纏めといてやろう。
俺はそんな風に、ずっとこんな日々が続くと思っていた。
*
その日の夜だった。
俺は普通に自分の部屋で机に向かい勉強をしていた。
時計を見ると、11時近くを指していて、もう3時間近くも集中していたのかと自分でも驚いた。
そろそろ母親が寝なさいと言いに来る頃合いだ。いや、いつもはもう少し早かったような。
早く寝ないと頭が悪くなると言うのは、母親の口癖だ。
それにそろそろ父親も帰ってきて、部屋の外が騒がしくなっているはずなのだが、それもない。
どこか静かだった。
むしろ……、静か過ぎるほどに……。
ぞわっと身体に嫌な感覚が走り抜けた。
何でもない日のはずなのに、何でもない日ではないような奇妙な違和感。
蛍光灯の灯りは白く煌々と輝いているのに、本棚や机、ベッドの影はいつもより遥かに濃いような気がした。
「お、お母さん……」と椅子に座ったまま扉へ呼びかける。
こんな声では扉の向こうに届く訳もないが、どうしてもこの場を動きたくないような気がした。
「お母さん!お父さん!」
今度は叫んだ。
これでうるさいと母親が駆け込んでくればめっけものだった。
しかししんと静まり返り、足音も声も聞こえて来ない。
「あ……あれ……、聞こえなかったのかな?」
自分に言い聞かせるように呟いて、はははと笑ってみる。
さあと頭の中が急速に冷たくなっていくように感じた。寒くもないのに極寒の雪国にいるように体がガタガタと震える。
「お……、お母さん!お父さん!いるんだろ!返事して!」
もう一度、もうなりふり構っていられず、全力で両親を呼んだ。
なのに……。
「何で、返事無んだ……?」
絶対に聞こえているはずだ。
こんな声を出せば、近所迷惑になると飛び込んでくるはずなんだ。
なのに、何で……。
もう寝ちゃった?外に買い物に出た?たまたま聞こえなかった?
頭の中に色々な考えが思い浮かぶけれど、どれもどこかピンとこない。
まして嫌な想像すら、頭によぎってしまう。
そんな考えはあり得ない。頭を振って、不吉な考えを振り払う。
そして椅子から立ち上がる。
「確かめてみるしか無い……よな……」
決意のために口に出して言ってみたが、最後の方は尻すぼみになってしまう。
椅子と言う安全地帯から自分から飛び降りて、奈落の底へと落ちているような非常に不快で危険なシグナルを首筋にぴりぴりと感じた。
このまま寝てしまおうかと考える自分もいたが、もし本当に家族に危険が迫っていたらと考えると寝てもいられない。
だからもう扉を開けて、確認しにいくしか無いんだ。
胸が張り裂けそうなほど心臓が鼓動している。
行きたくない。行ってはいけない。行くな。
俺の何かがそう言っているように感じた。
足を一歩踏み出すことさえ苦しい。息をする事も苦しくなって、頭も重くなってくる。
俺の全てが俺の意志を否定しているようだ。
扉を開けるな。ここにいろと。
でも、だからこそ、行かなくちゃ。両親に何があったのか確かめないと。
ぐちゃぐちゃになりながら、扉のノブを掴む。
冷たい、まるで冷凍庫の中にあったかのように。
「はぁ……はぁ……」
何でこんなにもノブを回す事が難しく感じるのだろうか。
それはきっと扉を開けたくないと言う心があるからだ。
金属製のノブをゆっくりと本当にゆっくりと回す。
ギ……ギ……ギ……。
早くと自分の手を急かすも、まったく上手く動いてくれない。
そしてこの間もずっと、『何の音もしない』ことが更に恐怖心を増した。
片付けをしたり、テレビを見たり、そんな音がしても良いはずなのに聞こえない。
この考えがまったくの杞憂で、ただ両親が早めに寝てしまったと言う可能性を願っていた。しかしそれも何で自分に寝るように言ってこなかったのかという疑問もある。
結局のところ、直接見るしか確認の方法は無い。
ノブが止まった。後は押して開ければ、部屋から出られる。
「ひぃ……。ふぅ……」
深呼吸をしたが、何か変な音になってしまう。それだけ緊張しているのだ。
胸騒ぎが止まない。
開けちゃダメだと自分が言っている。
しかしそれを押さえつけて、ゆっくりと扉を押し開いた。
廊下の冷たい空気が顔に当たる。
こんなに廊下は冷たかっただろうか。
廊下の左右を見てみるが何も無かった。いつも通りのように見える。
静か過ぎるという事以外は。
廊下の電気をつける。少し間があったが、すぐについてくれた。
首だけを出しながら、「お母さん……」と恐怖心から少し小声で呼ぶ。
リビングにいるはずの母親から返事はない。
しかしリビングは明かりがついていて、漏れた光が廊下の闇を明るく照らしていた。
節約だ何だとうるさい母親がリビングの灯りを付けっぱなしにするだろうか。
違和感が心の中に積み上がって、押し潰されそうだ。
誰もいないかのようにリビングから少しの音もしない。
リビングには誰もいないのだろうか。
いや、確認してみなければ。父親が帰ってきていれば、脱いだスーツが椅子に掛けられていたりバッグが置いてあったりするだろう。
そろりそろりと音を立てないように廊下を移動する。
何故、家の中でこんな泥棒みたいな真似をしなければならないのか。だけど自分の中の何かが、そうしなければならないと警告しているようだった。
ゆっくりゆっくりと近付いて、リビングを覗き込む。
ソファーにテレビ、四人用のテーブルとイス、棚と観賞用の花。
いつものリビングに違いなかった。
そして予想した通り父親がいつも使っているスーツとカバンがポンと置いてある。つまり父親はもう帰ってきていると言う事だ。
でもそれなら何でこんなに静かなんだろうか。
寝ているなら、父親のいびきが聞こえてくるはずじゃないか。
静けさがあまりにも怖い。
音がない事がこんなに怖いなんて思わなかった。
リビングに異常がないなら、次は両親の寝室に行って、本当にいるのかどうか確認しなければ。いや、いるに決まっている。
それなのに何なんだ、この胸騒ぎは。
どくどくと心臓の音がうるさい。
家が静かなのに、自分の身体の音がうるさくなっていく。
両親の寝室は二階だ。
すぐ近くの階段から上がれば行ける。
階段の下から上を見上げた。
電気はついていない。
見通すこともできない漆黒の闇が二階にどろっと広がっている。今にも闇が階段を伝って流れ落ちてきて、俺を包み込んでしまいそうだ。
二階の廊下の灯りのスイッチは階段を上がった先にしかない。
意を決して、一つ階段を上がった。
ぎしりといつもより大きく軋んだように聞こえた。そんな音にも心臓がすくみ上ってしまいそうになっていた。
ぎしり……ぎしり……。
階段を一歩一歩上がるたびに、壊れてしまいそうなほどの音を立てて軋む。
音を出すな、音を出さないでくれ。心の中で階段に懇願しても、体重を乗せた瞬間に足元が崩れてしまいそうなほど大きな軋みが響いてしまう。
冷や汗が体中から噴き出して、服が体にへばりついてくる。汗にまみれた服が冷たくなって、夏なのにまるで冬に変わってしまったように寒くなっていく。
足が重い。冷や汗の冷えからか、身体全体がだるくいつもは簡単に登れる階段すら苦痛に感じる。
呼吸が苦しい。喉が渇き、空気が出入りするたびにやすりで削られていようだ。それに肺が上手く動いていないのか、いくら呼吸しても酸素が入ってくる気がしない。
そしてどんどんと二階に広がる闇が迫ってくる。
いや、自分から近付いていく。
もう少しで闇の中に頭を突っ込んでしまう。
そう考えると、身体が震えた。
嫌だと、全身が言っていた。
ここから先には行っていけないと。
その言葉を無視して、重い足を持ち上げて登っていく。
顔が闇に浸かり、呼吸をする度に重苦しいナニカが体の中に入ってくる気持ち悪さを感じた。その気持ち悪さを拒絶するように、自然と息を止めてしまう。
おかげで自分から意識的に呼吸しなければいけなくなってしまった。
「すぅ~、はぁ~、すぅ~はぁ~」
しかし息を吸うたびに、気分が悪くなっていく。
本当に闇の中の空気に酸素があるのだろうか、そんな疑いを持ってしまうほど苦しい。
目の前に広がる暗い闇の向こうを見通そうとしても、何も見えない。例えすぐ近くに何かがいたとしても、見る事なんてできないだろう。
目の前に張り付くような闇の中を処刑台のように登っていく。
後り三段。
闇の中に何かがいる。そんな予感が心の中にへばりついてくる。
何も見えないにも関わらず、何かが恐ろしいモノがいるような予感がした。そして闇の向こう側から見ているような不気味な妄想が頭によぎってしまう。
俺を襲おうと闇の中で息をひそめている。
そんな訳ないはずなのに。
足を持ち上げて、次の段へ上がる。
残り二段。
身体が闇に埋もれていく。
自分の身体すらも見えないほどの暗闇。
本当にここは家の中なんだろうか。いつもこんなにも暗かっただろうか。
もうすぐそこに電気のスイッチがあるはずなんだ。
明かりがつけば闇を照らして、階段の上に何があるのか分かる。
そしてまた一段登る。
残り一段。
ひしひしと闇の中からのプレッシャーを感じる。
あと一歩のはずなのに、その一歩が遥かに遠く高い。
たった数十センチの段差が恐ろしく難しい。
しかも足がずっしりと重い。
最期の一歩を進めるのが、とてもキツイ。
だけど両親の安否が胸が締め付けられるように心配だから、二階へと足を踏み入れた。
ぞわりと身体が総毛立つ。
息を殺しながら、手探りで壁にあるはずのスイッチを探す。
ざらざらとした壁の手触りの中にあるつるつるのプラスチックの感触を求める。
「はぁ……はぁ……、どこ、どこだよ……」
いつもは適当に探れば見つかるはずなのに、今回に限っては全然見つからない。紙やすりのように手の平が削れていく。
でもなぜか見つからない。
確かここにあったはずなのに。
闇の中で無我夢中でスイッチを探し続けていると、ひんやりとしたものに触った。
「ひっ……!」
驚いて、声にならない声が出た。
それはプラスチックの感触ではなかった。
もっと冷たく無機質なモノの感触。
それは金属の感触だ。
蛇ににらまれた蛙のように動けない。闇の中で何にも見られていないし、見えもしないのに、本当にそんな気分になる。
中指に触れた謎の金属がゆっくりと動いている。
爪の先端を擦り、第一関節、第二関節……、ゆっくりと手の表面を擦りながら近付いてくる。
指に金属の感触が広がっていく。
無機質な冷たさと硬さ。
手が凍り付くように冷たい。
冷た過ぎる。まるで冷凍庫にずっと置いておいた金属のようだ。
手から熱が吸いだされて行ってしまう。
ついに手の甲まで金属は伸びてきた。
闇の中で何も見えない。手を這う金属の姿を確認できない。
そしてこの金属がどこから来て、自分に何をしようとしているのか。
何もかもが分からない。
手の甲を登ってくる金属の気持ち悪さを感じるのに、身体全体が硬直して動くことができない。目を開けているのか閉じているのか分からない。
吐き気すら感じるのに、それすらも喉の奥でつっかえて出てこない。
闇の中で得体のしれないものに触られているという恐怖で、頭の中が真っ白になる。
ただただ工場で生産される人形のように、その金属が無機質に迫ってくるのを見ているしかなかった。
手の甲を通り過ぎ、手首を進む。
腕をなぞり、腕の関節を曲がり、二の腕を登る。
腕が痛いくらいに冷たい。
二の腕を変わらぬ速度で迫ってくる。
もう肩にまで来ている。
闇の中でうごめくナニカが目の前にいる。
頬に空気を介して冷たさを感じる。
顔に触れられてしまう、ナニカに。
金属が頬に触れるか触れないかの瞬間、ピンポーンとチャイムが鳴った。
同時にふっと闇に溶けるように、腕に残っていた冷たい金属の感触が消滅する。そして体の自由が効くようになった。
必死になって壁を探ると、なぜ見つからなかったのかと思うほど簡単にスイッチを見つけられた。ぱちんと音がして、2階の廊下の電気がつく。
パッと見まわすが、何かがいた様子はない。
昨日と同じように見える。暴れたような形跡も何かが動いていたような痕跡も全くない。
はっと思い出す。
「お父さん、お母さん!」
自分が何のために階段を上がってきたのか、それは両親の安否を確かめるためだった。
すぐ近くの扉を開ける。そこは両親の寝室だ。
中を見てみると、強盗にでも入られたのかとでもいうような荒れようだった。まるで誰かが暴れたかのように椅子や机がひっくり返り、ベッドもぐちゃぐちゃになっている。
「な、なにがあったんだ……」
他の場所では何もなかったのに、ここだけ荒らされていた。
「お父さん、お母さん!」
呼びながら、箪笥やクローゼットを開けるが、そこに隠れている事は無かった。
両親がどこにもいない。
「嘘だろ……。お父さん、お母さん!」
他の部屋を手当たり次第に探そうと部屋を飛び出す。
その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。
びくっとして、階段の下を見る。その先に玄関があるはずだ。
もう夜中に近いのに、インターホンを鳴らすなんて誰なんだろう。おかげで何か変な物から助かったからありがたい。
お礼も兼ねてインターホンの主に会ってみようか。
もしかしたら、両親がいない理由も知っているかもしれないし。
登る事があれだけ苦痛だった階段を軽く一段とばしに降りて、玄関に向かう。今の自分には一人でも傍にいてくれる人が欲しかった。
両親もいないし、良く分からない存在がいる家の中で一人きりでいるのは心が潰れそうだった。
「はい!どなたですか!あの、助けて欲しいんですが……」とそんな事を言いながら、カギを開けてノブを回す。
インターホンの画面から外の人の顔を見ておけば良かったか、と頭によぎったが、もうドアは開いていた。
ひゅうと外の風が入ってくる。
そう、まるで、真冬のような冷たい風だった。もう初夏の時期のはずなのに、冷凍庫の扉でも開けたかのようだ。
「えっ……」
明らかな異常にドアを開ける手が止まる。
かちゃんと硬い金属の音がしたと思ったら、急に意識が遠くなる。
ドアの外を見る事も出来ず、ドアの隙間から漏れる冷たい風に包まれていく。
身体の力が無くなって、玄関に倒れこむ。だけど痛みは無い。
すべての感覚が失われて、何も見えず何も聞こえない。
凍えるような寒さだけは意識が完全に無くなるまで感じていた。
「寒い……。さむい……。さむ……い……。さ……む……い……。……む……い……」