73話
しかし似ているからこそ、もしかしたら自分もレイノーになってしまうのではないかという怖さ。考えすぎている、と他人には冷やかされるかもしれない。自分自身でもそう思っている。思おうとしている。ピアノを一度は断った。それでもまた戻ってこれた。好きだから。それをまた失うことは、考えただけで背筋が凍る。
「どうして……どうして花を辞めろって、手を冷やすことなんてするなって……止めてくれなかったの……」
その後半はほぼ音にすらなっていない、ベルの漏れた嗚咽。不器用な息遣いから、泣いている、というのは明白だった。我慢の限界はとうに過ぎていた。よくここまで持ちこたえた、と言ってもいいだろう。
「私が忠告したところで、そんな簡単にフローリストを辞めることができた?」
「……」
「どうしてかわからない? うん、もしかしたら、まだわからないかもしれないわね」
ベルの沈黙はこの場合、安らかな笑みを浮かべるセシルの問いに対して否定を表した。
それならしょうがないか、とセシルは胸中で溜め息を吐き、たっぷりと間を取り前置きを作る。そして店内の空間に染み渡るような澄み声で、優しく娘に諭した。
「あなたの、笑顔があるからよ」
「……なんで」
オスモカラーの地面を向いていたベルの瞳が大きく見開かれる。一瞬、脳の思考回路がショートし、意味の識別に難色を示すが、それは神速で繋がり、脳ではなく心でその言葉を受け止める。
「それだけ、ってあなたは思うかもしれないけど、親にはそれだけでいいのよ。子供の笑顔って、そんなに安いものではないの。それが一番、最高位」
その言葉通り、そんな小さなことなの? とベルが疑うのはむしろ、当然とも言えた。子供がいるわけでもない、自分自身がまだ大人と言えないその段階でそれを分かち合うのは至難。それは言った張本人であるセシルも認識している。
「今すぐにわかれ、とは言わないわ。でも、男性に陣痛がどれだけ痛いか、と聞くようなものでもない。徐々に、そしていつか知ることになるの。私もあなたくらいの年の時はわからなかったでしょうし。ベアトリスさんが抱く、シャルル君への想いも似たようなものかしら?」
娘と弟、類は違えど同じ小さき者への家族愛。母性を孕むセシルの瞳はベアトリスに同調を訴えている。ベアトリスがシャルルに対して、確かな愛情を持って接していることを、楽しそうに〈ソノラ〉でのことを話す娘から聞いて知っているのだ。
「そうですね、弟には笑顔が似合うでしょう。私もそれで癒されてますね」
さらりと当然のように言い流す姉の表面の良さに、内部の濁り具合を知る弟はあえて波立てる。
「癒されてる、ていうか、僕が家事全般するから楽してるだけだと思うんだけど」
「聞こえんな」
「ですよね」
そう簡単にダイアモンドの強度を持つハートが折れてくれるとは思っていないので、シャルルは予想通りの応答に直伝のテキスト通りの対応をする。数年に渡る研究の成果はすべて頭の中に叩き込んであるのだ。この場合の返し方は他にも数十通りある。
「……」
耳で、口で、脳で、心でセシルの本心を吟味し、自らの血肉と化していたベルは、言葉を発さずに、そこから思案にふけった。しかしその内容がまとまらず、なにを考えてなにを導き出したいのかわからないでいる。つまるところ、反応に困っているのだ。
「時に、秘密にしていたこと、お墓まで持って行こうとしたこと、恐れを具現化させてしまうこと、そしてその本当の気持ち。おそらくですが、セシルさんはレイノーのことは、いつかはベル先輩に伝えなくてはいけない、と思ってはいたのではないでしょうか」




