64話
ぱっ、とまだシャープさにかける丸い輪郭の表情を綻ばせるベルの笑みが、セシルにとっての最上の後押しだった。この笑顔の方が魔法のようで、セシルは心を揺らす。
「絶対に無理しないでくれよ」
そう言うファビアンのもう一口すする紅茶に多少の音が聞こえ、動揺していることに気付く。「わかってるわよ」と、イスを引いて座ろうとした瞬間、ファビアンが手に持った新聞から目を向けたことにセシルは背中で悟った。このイスに演奏目的で座るのはいつ以来になるのか、遠い目を三秒ほどした。
いつも掃除だけはしているため、ホコリが積もる事はない。だがもう一度その目的で座ることは、ここ数年セシルは想定すらしていなかった。なぜいきなりベルが興味を持ったのだろうか、それが頭をよぎる。そして、イスに腰掛けるその数秒に、紆余曲折あった半生を振り返るようだった。
「はい、じゃあここに座っててね」
セシルは自分のヒザの上を指定し、両脇を抱えてベルを重石のように乗せる。
「すわる」
白と黒の鍵盤を前に、新しいおもちゃにして暴れると思っていたが、意外にもすんなりと愛する娘は従った。確かにそれはありがたいが、元気一杯に抵抗する姿も、同時に目にしておきたかったのも事実であり、セシルはあえてどっしりと構えたベルを、落ち着きなくヒザで揺らしたりしてみた。だが動く気配はない。ありがたい。同時に物足りない。
その集中力がビリビリ、とまではいかないが、ジリッと伝わってくる感覚に、最初のラ音にセシルは力を入れる。自分の音を久々に聴いた感想は、やっぱ腕落ちてる、だった。
「ふわ……」
それはのちにショパンの『子犬のワルツ』のローテンポ版、難易度としてはそれほど高いというわけでもないのだが、初めて生で、それもこれほど近くで聞いたのが初めてだったベルにとって、まさしく魔法の領域であった。
テンポが落ちたということはつまり、本来のものよりずっと指のスピードも落ちているのだが、しかしセシルの紡ぐ流線はベルの目で追いきれず、白い部分と黒い部分を押すとそれに応じて音が出る。手品ではなく、魔法。
手入れといえば掃除程度しかしていないピアノと、久しぶりということも加え思うように動かない指。当然調律も悪い。重い。セシルにとって歯がゆさが残る演奏は、一分を過ぎたあたりで唐突に止まる。短い曲ではあるが、それにしても早いフィナーレ。
目を瞑り聴き入っていたファビアンは「まさか」といった面持ちで振り向くが、どうもただ単にノリで止めただけ、という余裕のあるセシルのアイコンタクトに気付くと、安堵の溜め息をついて深くソファーに体を沈めた。紅茶をすすろうとしたが、その時に彼は自らの手が震えていたことに気づいた。やはり緊張していたようである。
しかし、ベルはまだまだ満足という言葉を、文字通り知らないらしい。
「しゅごいね! もっともっと!」
ついに暴れだした娘の嬉々としたはしゃぎっぷりは、成長を感じられるとともに、母親っていいな、と感慨に浸るセシル。
「あら、ありがと。でも今日はここまで。また明日にしましょ」
人差し指を立てて制するが、一度火が点いた幼児の好奇心は、赤々としたものだった。
「やだ、やだ! もっとなの! もっと『まほう』がいいの!」
「しかたないわね……」
こうなると手がつけられないことは、すでに数年体験した育児から学習している。自分から折れたほうが被害は少ないこともセシルは知っている。
どの曲にしようか、と口を尖らせて選んでいると、ファビアンが心配そうに、しかしそれでいて恥ずかしそうにリクエストする。
「……『古風なメヌエット』、なんてどうかな? ほんの少しだけでも、数小節だけでも聴き応えがあるだろうから」
ラヴェルの『古風なメヌエット』、それはあまりピアノに詳しいわけではないファビアンにとっての特別な曲。難しいわけでもなく、テンポも遅いためこの場にうってつけとも言える。そして、初めて聴いたセシルの曲。
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