63話
まだ夏の暑さを孕んでいない涼風が、窓辺に飾ったプランターのゼラニウムを撫で、その風を媒体に舞う鳥達の心地よいさえずりは、落ち着いた午前を迎える家族へのサービスのように思える。オーケストラの演奏はお金がかかるが、これなら無料で飽きるまで楽しめる。
たとえ開いている店でも平日より早く閉まったりするほど、日曜日は特に家族と過ごす特別な時間となる。自宅で家族間での語らいなどを楽しんだり、ランチを持ってピクニックへ行くのが習慣、といってもいい。
ベルの家庭では前者を、その年の六月第一日曜日は選択した。
それは、決してセピア色に褪せることのない、始まりの音。
「ね、まーま。あのくろいの、って、なに?」
まだ言語能力の途上にあり、はっきりと単語を区分けすることができず、一つ一つ確実に。十数年前のベル。母親であるセシルに立って抱きかかえられたまま、置物のように鎮座するそれを目と指で問う。以前から気になっていた、リビング片隅の黒いそれ。一度も使っているのを見たことがない。そもそも使うものなのか、幼いながらに疑問を持つまでになった。
「んー? あれはね、『ピアノ』っていうの。はい、ゆっくり。『ぴ』『あ』『の』」
「ぴ、あ……の?」
ゆっくりと、だがまた新しい単語を刻み込んだ脳。柔らかい頭を撫でてセシルは母親として褒める。
「はい、よくできました。あれはね、叩くと音が出る、魔法の道具なの。って、今じゃただのインテリアか」
「い、んてり……?」
「いや、そっちはまだいいの。『ピ』『ア』『ノ』、危ないから乗っちゃだめよ」
「うー」と唸るような愛しいベルの返事を聞き、話題転換に部屋をキョロキョロと慌ててセシルが見回すと、まだピアノに興味を失せていなかったベルが、ぺちぺちと母の顔を叩く。
「まほう、おと、ききたいー」
そうきたか、と数秒前の自分の発言を若干悔いたセシルは、ある意味納得した。『魔法』なんてのは、このくらいの年だと憧れるものだったかも、と。
渋るセシルの背中を押したのは、傍らで二人掛けのソファーを大胆に一・五人分くらいの幅をとって大きく座る、夫のファビアンだった。手にした新聞は、今朝方タバコ店で購入してきたもの。だからといってファビアンはタバコを吸うことはない。最近では喫煙者に片身の狭い世の中になっているうえ、小さい子供がいる。そもそも、タバコの煙が苦手で、一度興味本位で吸ったときにむせて以来、「こんなもの二度と吸わん」と固く決めた、嫌煙家でもあった。その嫌煙気質の波長がお互いに合ったのも結婚の動機の一つ。
「まぁ、ゆっくり弾くくらいなら、なんとかなるんじゃないか? でも、無理はしないでくれよ、頼むからさ」
言い終わりに紅茶を一口、音をたてずにファビアンはすする。
そういえば彼は自分のピアノが好きだった、とセシルは感傷にひたった。直接「僕も聴きたい」と言わなかったのは気遣いだとわかったが、思えばもうこのアップライトピアノに限らず、何年も弾いていない。なんとなく、自分の手を見つめてみた。でも引っ込み思案のファビアンがせっかく注文してくれたのだから、と、乗り気になった。
「……んー、じゃあちょっとだけ、やってみよっかな?」
「うん!」
ブックマーク、星などいつもありがとうございます!またぜひ読みに来ていただけると幸いです!




