62話
寝耳に熱湯をかけたようなシャルルの報告に、ベルは呆然とした。はるか高みにいると思っていた二人が、実はそれなりに認めていてくれたことを知らなかったため、うまく事実を飲み込めずにいる。もちろん技術や知識ではまったくの素人と言っていい程度ではあるが、それ以外の光る部分を見つけたことで、予想もしなかった自信を持つ。徐々にテンションが上がるのが自分でもわかった。
「そう、なんだ。全然気付かなかった。あのベアトリスさんが……」
「もしかしたら、ピアノの柔軟な発想から生まれるのかもしれませんね。ちょっと、羨ましいです。でも、負けません!」
「じゃあシャルル君もピアノ始める? あたしとは習う順が逆になるね」
「もしそうなったら、ピアノでも『打倒ベル先輩』を掲げますね」
一軒目二軒目三軒目と買い物をし、塞がってしまった両手を必死に握って気合を示す。それもなんだか愛らしく、離れてしまった手をベルは口惜しく感じた。なんとか無理して繋ぐ方法を考えるが、あえなく撃沈した。
「でも、まだまだ覚える事が多くて、いっぱいいっぱいかな。配置の仕方にも色々あるって知って、てんてこ舞いになったし。それに花言葉、バスケット、基本技術に鋏の選び方。どこまであるの、って感じだもん」
「だから、花は面白いんです。姉さんですら『まだ四パーセント程度しか知らない』と言っていたのを覚えていますか? 僕なんてまだ三パーセントにすら達していないかもしれません」
そういえば、初めて〈ソノラ〉へ行った日に、そんなことを言っていた気がする。確かになにもかもを見通したかのようなベアトリスですら、確固とした態度で言い放っていたので記憶の片隅に確かに存在していた。だとすれば自分は今どこにいるのか、ベルはおおよそに換算してみる。が、暫定を出して苦笑い。
「あたしなんか、まだ一パーセントもいってない程度だね。早くシャルル君達に追いつかなきゃ」
「あと三年は負けるつもりはありません」
「アイディアで勝負!」
どっちからともなく吹き出し、クスクスと笑いあう二人。もしかしたら、ピアニストとフローリストは意外と共存できるもの、そうベルの頭をよぎった。
例えば、一つのアレンジをクラシックの曲で表現してみる。ナザレーの『トパーズ色のカクテル』の弾けるようなリズムには向日葵のような眩しさを、サティの『ジュ・トゥ・ヴ』には、タイトル通りの『愛』に関する花言葉を持つものを。そうなると、アイディアが枯渇することなどない。確実に花の奥深さにベルは飲み込まれているのを、興奮をお供に自分でも理解する。確かにこれは深い。
「少し、急ぎましょうか。バスケットを買いにいってるの、実は姉さんに言ってないんです。待ってるかもしれません」
「うん、そうだね。早歩きにしよっか。バスケット、落としちゃわないくらいに」
少しでも多く二人で、とひょうきんにベルは計画していたが、なんだか色々と気分がよかったこともあり、あっさりと要求を呑む。それにベアトリスにデートを言ってないとなると、連れまわしてるような罪悪感が多少芽生えたのがなきにしもあらず、であった。ベアトリスはライバルだが、上司でもあるのだ。
車道と街路樹を挟み、幅の広いアベニューを歩くと、既に目を瞑っても行けるほどに慣れた〈ソノラ〉への道筋。最初は迷ってしまったものだが、今ではなぜあの時に迷ったか、という方が謎に思えてくるほどである。
一本外れると、入店する人を拒むかのようなその扉の奥の、きらめく優しい空間を知る人がそれほど多くないことに、ベルは多少のもったいなさを感じる。だが、大々的に告知しないでもほしいという二律背反で、秘密基地の感覚が気に入っているのかもしれない。いつまでも、そこにある幸福。
「あの、ベアトリスさん、遅れてすみません。実はシャルル君と買い物を――」
多少の叱責を覚悟しつつも、軽い足取りでベルが踏み入れる〈ソノラ〉の領域。まるでそこは第二の自分の家であるかのように思えていた。
「おお、ベルか。ちょうどいいタイミングだ。お前のお客様、だろ?」
咎めることも、なじることもせず、店内でスカートエプロンの制服を着たベアトリスがベルに主役を譲る。
その「お客様」と示された、飾り気はないが廉潔な佇まい、細いが芯の通った伸びた後ろ姿は、やつれてはいても力強さを感じさせる。それは、よく知る者のそれだった。その者は第一の自分の家にいるはずの。
落とさないように、と大事に握っていた籠を持つ握力が一呼吸に弱くなる。そこにいたのは、昨日の夜も今日の朝も、寝る時も起きた時も最初に見る可能性が一番高い人物。
「……ママ……?」
消え入りそうなその声は、外の雑音と混ざり、儚く消える。振り向いたその淑女、そしてベル。二つのヴァイオレットの双眸。
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