32話
初めて入ったその教室内には三人の他にいない。一秒とかからずにシャルルのレンズの奥の網膜は目標を捉えた。
シルヴィが一つ手を叩く。自分でも思っていた以上に音が出て、一瞬苦悶した。もう見つかっているのに、大きく手を振ってシャルルに合図する。
「おーい。ほんとに来たぞ。相変わらず遠めでもわかるSサイズだな」
よく声の響く構造の教室内で、反響を繰り返し、その意地悪なシルヴィの一言はシャルルの頬を膨らませた。胸にバスケットを抱きかかえたまま、足早に窓際の半死体となりはてている店の従業員のもとへ歩みを進める。
「シルヴィ先輩もいらしたんですね。花は食べていいものと悪いものがあるんですよ?」
「わかってるって。ちゃんと焼いて熱殺菌してから食うから」
「焼くのは水揚げ以外ではしません!」
ぷいっとそっぽを向くと、階段につまづいて転げそうになるが、なんとか持ちこたえてそのままシャルルは顔を起こしたベルににこりと笑う。その後は慎重に歩をシルヴィの横の席まで進めると、ベルの机の上にそっと網目模様のバスケットを置いた。そのままベルの隣に座る赤褐色の髪の女性に、ちょこんと乗っかった帽子をとって丁寧にお辞儀をする。
「あの、はじめまして。CM2のシャルル・ブーケと申します」
その帽子をシルヴィの横の机に「失礼します」と不在の机主に一応の断りを入れて置かせてもらう。
初等部の時代から帽子を被った記憶すらあまりないシルヴィは「律儀だなー」と揶揄する。
それをシャルルは無視し、バスケットを開いて女性三人組に見せると「おお!」と、歓声が上がった。三人というか主にシルヴィの声である。
「どうぞ、まずお昼にしましょう。念のため大目に作ってきて正解でし――んぐッ!!」
と、机越しに抱きつかれたシャルルは言葉を遮られる。ここ最近隙を見せたらこうなるのを覚えていたがスピードが輪をかけて速く、目で追いきれなかった。じたばたと体を振って抵抗するが、パワーもいつもより輪をかけて強い。机がお腹に軽く食い込む。
「だか、だから! ベル先輩、抱きつくのはやめて……って、あれ?」
なんとか離そうと必死に爪先立ちのまま抵抗するシャルルの頭の上に、ずっしりと重くて柔らかい感触。それがここ最近から分析した前頭葉の記憶にはないものだった。階段となって、さらに机のぶん体が離れているといってもそれはおかしい。大きくなるわけがない。
それはベアトリスに抱きつかれた時も感じることの出来なかった、熱を伴った柔らかい『なにか』であり、二人に共通している特徴でもあった。
恐る恐る首を回すと、両手を広げた状態で停止し、放心するベルの姿が目に入った。
「ベル、お前動けたのか」
バスケットからひょい、とまだ熱を若干残したカボチャのキッシュを、シルヴィは自らの口に運んだ。「うん、美味い」と、ただ一人傍観者のポジションを得ている。
「このチーズとハムのトーストもいけるぞ。さっきの店のやつなんかよりも数倍いける。ほれ」
満足気にシルヴィは半開きになったベルの口に貯金箱にお金を入れるかのごとく押し込むと、ゆっくりとタコが獲物を消化するように口内にトーストが消えていく。
その姿をシャルルは抱きついている人の隙間を縫って眺めた。
「……てことは」
ゆっくり七○度ほどシャルルは顔を上げると、胸が邪魔で犯人の顔がよく見えないが、赤褐色の手入れの行き届いた髪が頬を撫でた。バラの香りが鼻腔をくすぐり、よく嗅ぐ香りで親近感をそんな状況でも覚えた。今朝もバラを使ってアレンジを一つ終えたのだった。
次にシルヴィがバスケットから取り出したのは、ショコラのテリーヌだった。一口ほおばると、そのまま一気に口に入れ「お前、本職は何屋だ?」とからかう。そして最後に木苺のタルトで締めると、「いやー、完全な職人技でしたな」と感謝の気持ちを込めて手を合わせた。ある程度満足したのか、深くイスに座り首を元気よく鳴らすと、再度味を思い出して顔を綻ばせた。
「いいもん食ったなー、しかし」
ちらっと泳がすシルヴィの視線の先には、少しずつトーストを消化していく少女と、机越しに抱きついて離れない少女と、抵抗してるけどまったく抜け出せない少年。
「いやー……なんだこれ」
責任は投げた。
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