287話
気を遣ってもらっていることは、冷えたベアトリスの心にも理解できる。感謝の気持ちはある。だから。
「……気が向いたら」
そう、気が向いたら。つまり今日は、気が向いてしまった。時間ができたから? 上手くなりたいとか、そういうのではない。弾かなくてもよかった。なのに。
(……私はなにをやっている)
あいつにも。こいつにも。弾くことはない、ただの花屋であると伝えているのに。決めているのに。ベルか? あいつのせい? ピアノのことを考える時間ができてしまったから。きっとそう。
なーんか面倒なこと考えてそう。ややこしいことに巻き込まれたくないサロメは、早々に巻き込まれる前に退散する。
「ま、よくわかんないけど、暇なら販促のためにも弾いててもらえたら助かるわね。グランドはあたしが大体は調律してるから。好きにして。しばらくはイメージだけで弾いてきてたんでしょ?」
もらった茶葉を手に、店の奥に引っ込んでいく。ショコラトリーで働く友人からもらったショコラと合わせてみよう。脳はそれに支配された。
「そういうわけだから。自由気ままにやってくれていい。なにかあれば、私でも誰でもいいから声かけて」
最後にそう声をかけ、ルノーもサロメについていく。このあとも仕事はある。それに、色々と悩みを抱えていそうであれば、なにも考えずピアノと向き合って、ただ闇雲に弾くことも必要なこともある。あまり干渉しないのが今はたぶんベスト。
その背中を見送りながら、ひとり残されたベアトリスは店内の照明に照らされた自分を俯瞰的に見てみる。
「……」
ピアノに囲まれて。そういう環境ができて。でも。それらを全て捨てた過去。
(……だから、私はなにをやっているんだ)
もう一度、自問自答してみる。適度に暖かく、適度に湿度を保った空間。でもまるで自分にだけ。雪が降り積もるような気がして。




