286話
悪くない、ということはつまりそれは。ピクピクと顔の筋肉を痙攣させながらサロメは不満をぶちまける。
「誉め方がいちいちムカつくわね。『サロメちゃん天才』って脳内翻訳するこっちの身にもなってくれる?」
「するなそんなこと」
悪質な改変には断固としてベアトリスは否を突きつける。普通に賞賛するのは。それだけは避けたい。
まぁまぁ、と場を制するのはルノー。そして拍手。
「いや、しかし派手さはないけど、濃縮されたいい演奏だ。しっとりと染み渡るような」
素直に素晴らしいという感想だった。あまりプロのピアニストがコンサートなどでは弾くことはない曲のため、比較対象も難しいところだが、今までに聴いてきたこの曲の中でも、飛び抜けて好きなピアノ。録音したかったくらい。
鼻を鳴らして、さも自分のことであるかのようにサロメは代弁する。
「派手な演奏もできるわよこの人。バラキレフ『イスラメイ』も恐ろしい練度で」
全てのクラシック曲の中でも最難関に近い。名だたるピアニストが録音を残しているが、それでも満足のいく演奏ができているのは限られるほどの曲。名ピアニストで指揮者、ハンス・フォン・ビューローが「最も難しい」と認めたほど。
「まさかあの曲を? サロメがそこまで言うなんてな」
ルノーは手放しでこの子が賞賛するのも珍しい、と顔色を窺う。言葉とは裏腹に、きっとそれを認めたくない対抗心みたいなものが、内部で渦巻いているのだろう。他人の名前すら覚えないこの子が。
ひとまずは感触を確かめに来ただけのベアトリスは、もうここに用はない。そそくさと帰る準備。
「忘れろと言っただろう。じゃあな」
「また来てくれていいからね。いつでも」
どこか窮屈そうに生きる少女。そんな印象をルノーは抱いた。長く生きているぶん、他よりかは敏感になっている。だから、なにか買ってくれとか、そういうのでもない。ただ弾きに来ていい。




