265話
一度座り直してさらに身を寄せるリディア。距離感が近い。耳元で囁くように。
「正解は『ホロヴィッツ』。有名なピアニストだよね? なりたくない理由に関してはよくわからないんだけど、私はとても深い意味があると思ったよ。そこにベルの悩みの解決のヒントがあるんじゃないかな」
作中ではあっさりと答えていたが、なにかしら意味があるようにも捉えられて。だってほら、もし彼が良いピアニストだというのなら、なれるものならなりたいというのが素人考え。だけどそれが足枷になってしまうというのは。興味深い。他人の意見も欲しいところ。
少々引き攣った顔つきでベルはそれを吟味する。
「有名……っていうか、歴代でも最高と言ってもいいくらいの人だけど……」
様々な異名、それこそ『魔術師』『異端児』といったピアノの実力を表すものから『変人』『奇人』『問題児』といったマイナスなものまで、総なめにした巨匠。
もうひとりの巨匠、ルービンシュタインと並び称されるが、明るく社交的だった彼と比べて、ホロヴィッツは非常に気難しく、その性格が演奏にも表現されている。
孤高で、他者のことを一切受け入れず、自分の道を追い求めた演奏のスタイル。緊張感と悪魔的な技術。作曲家にもこだわりがあったのか、ルービンシュタインが多くの作曲家の曲を演奏したのに対し、ホロヴィッツはあまり多種多様、というわけでもない。
ベルにとって雲の上の存在ではあったが、よく考えたら自分もどちらかといえばルービンシュタインのほうが目指したいかも、という結論に達した。いや、どっちもとんでもないんだけども。
せわしなく座ったまま体を動かすリディア。動くのをやめたら死ぬ魚類のように前後左右。
「真似することは大事なんだろう。憧れるのも大事なんだと思う。でも私はいつか、ベルの口から『リシッツァになりたくはない』って言ってもらえる日が来ることを願ってるよ」




