182話
だが、お手上げ、とでも言うかのようにファビアンは深くソファーに沈み込む。
「パパが花屋で働いていたのは本当に短い期間だったからね。その問いの答えはさっぱり」
肩をすくめてギブアップ。本当にわからない。
だろうな、と思っていたセシルは「ふふっ」と苦笑する。
「ぬぅ……ちょっとピアノ弾いてみる」
考えていても埒があかないと悟ったベルは隣の部屋、とは言っても繋がっているので同じ部屋のようなものではあるが、自主練と決め込む。指先を動かすと脳にいいって言うし。
師、と言っていいかわからないが、花屋の店主でもあるベアトリスから、ピアノについて多少の心得だけ習っている。頭の中だけで弾けるように、としばらく言われたようにしていたが、少しずつ許可が下りてきた。そして次の指令。
『鍵盤の音が鳴る浅さの限界で弾く』
という、おおよそ音楽院でもあまり習わない技法。技術というよりは意識。メーカーによって、実は鍵盤を押した時の音の鳴る深さというものは違う。調律によっても変わってくるが、基本はヤマハやカワイといったメーカーは約五ミリ、スタインウェイは約二、三ミリというくらいには違う。
ただ、浅く弾くだけだと軽い浮いた音になってしまうため、響くように重さも加えて。体重と重力。その二点。そして水の入ったコップを置くように、優しいタッチ。
使用するのはアウグスト・フェルシュターのグランドピアノ。映画『戦場のピアニスト』でシュピルマンは全編を通してスタインウェイを弾いていたが、一度だけこのメーカーのものを弾いている。そういった背景も知っていると、悲哀に満ちた曲がより一層濃度を増す。
「なに弾こうかな……」
いつもならパッと思い浮かぶのだが、頭を使いすぎたせいか、中々閃かないベル。ちなみにパリで楽器可のアパートはあまりないが、そこはご近所との交渉次第。遅すぎない時間と、やかましすぎないようにというのは共通。芸術の都、リクエストがきたり、というのはわりとよくあること。
「自由に……もっとルールから飛び出すような……柔軟な……」
腕を組んで、ピアノの向こうの白い壁を凝視してみる。クラシックで一番自由な曲はなんだろう? 色々ある。が、ジョン・ケージ『四分三三秒』。一切楽器を弾かずに、周囲の音のみという、曲? と疑ってしまうようなものも。
「……決めた」
鍵盤に指を置く。指で弾くのではない、重さ。重力に負けるように弾く。ぐちゃぐちゃな頭。それを鎮める、まるで『音を遮断する』かのような音楽。
エリック・サティ作曲『グノシエンヌ』。一番から六番までのピアノ独奏曲。なぜか五番を覗いて小節線や拍子がなく、さらに一番から三番までに書いてある彼の独特な指示。
普通は『跳ねるように』や『滑らかに』といった弾き方の指示なのだが、この曲の場合『外に出ないで』『頭を開いて』『先見の名を持つように』など、さっぱり意味がわからないものになっている。だが、今の自分に重なる、とベルは選曲した。
まるで宇宙空間を泳ぐような、そんな接地感の無さ。宇宙は真空のため、音は発生しない。だがピタゴラスは「宇宙は音楽を奏でており、それが調和をもたらす」と言った。よくわからない。その場所は、音が鳴っていないのに、まるで音で構成されているようで。
ガリレオ・ガリレイも「音楽と宇宙は繋がっている。音楽を知れば宇宙を知ることができる」と。やっぱり天才の考えることはわからないや、そうベルは音を噛み締めながらアパートの空間を彷徨う。第四番からは少し曲調が変わり、より内面を曝け出すように。
静かで、ゆったりとした時間を揺蕩うセシルとファビアンも、目を閉じてそれに聞き入る。
「……これを花にするだけでいいのに」
ボソッとセシルがこぼす。音のない花。そう、それさえあれば。




