156話
先ほど作ったアレンジメントをベアトリスは視野に入れた。
「ダブルエスケープメントアクション」
ただそれだけ言い放ち、もうひと口エスプレッソ。
「は?」
なにやら難しい英語が並び、さすがのレティシアも無意識に聞き返す。ダ、ダブル?
「ピアノは鍵盤を押すと、それに呼応してハンマーが弦を叩く。そして音が出るという複雑な作りなのだが、以前のシングルのときよりも、ダブルのほうが戻り幅が少なくなったということだ」
複雑な説明を省き、簡潔にベアトリスは説明する。本当はアクションと呼ばれる部分も説明せねばならないのだが、面倒だと感じ、最低限に抑える。
それでも、要点を掴んだレティシアは理解を示す。
「それでそのダブルなんとかにすると、素早く押せるようになったと」
先の説明で把握できたのはそこまで。ピアノのことはよくわからないが、なにやら進化しているということはわかった。
さらにベアトリスは追加の補足。こちらのほうが重要。
「素早く押せるだけではなく、タッチの強弱がより表現しやすくなったのもある」
「で、それがベルとどういう関係が?」
それとベルがイメトレしかしていないことに、どう繋がるのか。レティシアは全くピンとこない。ピアノ進化とベルが合わない、なんてことはないだろう。シングルのほうがいい人間なんているの?
そしてこのあたりからベアトリスは核心に触れていく。ピアノ。その進化の先。
「一度ハンマーが弦を叩いたら、音は減退していくのみのはずだったピアノに、とある可能性が生まれた」
無意識に鍵盤を叩く真似。ラフマニノフ『ピアノ三重奏曲 第一番』。悲しみの三重奏。
だが、そんなことには気づかず、もったいぶる言い方にレティシアは少しモヤモヤしてきた。
「可能性?」
「音を震わせること、つまりビブラートだ」
ビブラート。ただ揺らして響きを強調する、というだけではなく、感情をより深く表現するアクセント。
それは聞いたことある。少し表情が明るくなったレティシアは、一度話を整理しつつ、より深く解説を欲す。
「歌とかヴァイオリンでよく見るやつ? なぜピアノでは無理なの?」
楽器ならなんでもいけるのでは? 素人考えだが、ピアノがダメな理由がよくわからない。そもそもピアノの構造もよくわかってはいないのだが。なぜだろう。
今度はアクション部分のジェスチャーも交えつつ、ベアトリスはより高度に伝える。
「さっきも言った通り、鍵盤を押すとハンマーが弦を叩き、音が出る。逆に鍵盤を離すとダンパーと呼ばれる装置が弦の振動を止めて音を消す。それがピアノだ。ピアノにはそれしかできない……はずだった」
語尾を曇らせ、含みを持たせる。
「しかしダブルエスケープメントアクションによって、ペダルや鍵盤の振れ幅でビブラートは理論上可能になった」
以上がピアノの基本的な構造。とはいえ、これはまだ表面の浅いところ。ピアノという深海は恐ろしく深い。一気に喋ったら、甘いものが食べたい。




