107話
「ね、姉さん! いつからいたの!」
もしかして声に出していたのか、とシャルルが思うほどに上手くベアトリスの声が繋がった。驚きは倍以上となる。心臓は喉元まで出かかった。
「『あの、先輩……僕も――』、の後はなんだ? と聞いている」
ダイヤモンドですら握りつぶしかねない怒気を従えたその姉の設問は、少し答え方を間違えただけで即ゲームオーバーとなる。だが本人は「別に怒ってなどいない。ただの世間話だ」とあくまでその背後にうっすらと浮かぶオーラを認めようとはしない。
蛇に睨まれたシャルルは急いで先ほど以上のパッチワークを作る。
「いやあれは……そう! あの場に合わせるための相槌! というか、流れを読んだっていうか、その――」
「私は今までお前を扱き使ってきた。炊事洗濯なんでもかんでも。悪かった」
突如、ベアトリスは話題を転じ、謝罪を始める。
その方向転換ぶりにシャルルの頭の処理が間に合わない。論理立てずに話すことは、ベアトリスの特徴としてたまにある。先に答えを言って後から過程。そしてその場合は大抵シャルルにとってはよろしくないことが起きる。
「ね、姉さん? 一体なにを――」
「私に『仕返し』はないのか」
「!!」
開いた口が塞がらない、とはこのことを言うのだろう。
「そ、そんなところまで見てた、の……?」
「一部始終な。ベルが最初に来た日のことを覚えていないのか。あの時もベルになにか色々とされたみたいだからな。監視も含めてだ」
「あああ……」
穴があったら入りたい、とはこのことを言うのだろう。
「『仕返し』ならば甘んじて受けよう。それが私のためになるのであれば、何も文句は言わん。さぁ、存分にするがいい」
弟と同じ色の瞳を閉じ、準備の体勢を作り出すベアトリス。基本は人を待たせる側の人間である。五秒待ってもなにも起きないので「早くしろ」と命令を発し催促するが、一向にその気配を見せないので、腕を軽く開けてみるとたじろぎの声が聞こえてくる。
「するがいい、って言われても……」
どうすればいいのか、パターンを考えつく限り考えたが妙案と言えるものは一つもない。こういった場合の正しいフォローの仕方はまだシャルルは心得ていない。ただ頬にキスをするならまだしも、そういった意味にとられる口付けなどできるはずもなかった。ただ逃げたら姉になにをされるかわからない。音をテーマとする店の前で、次に出される音によっては見るに耐えないものになるかもしれない。
しかしそこでどこからか漂う香ばしい香りが鼻腔をつき、シャルルにとって生きる道が一瞬で開けた。「これしかない」と。
「僕、夕飯の準備しなきゃ! 新鮮な野菜をもらったから、それでポタージュとか作るね!」
水を得た魚のように元気を取り戻しシャルルは逃げを宣言する。
それをベアトリスは「おい、待て。まだ話は終わってないぞ!」とその背中へ手を伸ばすが空を切り、そのまま追いかける形で店の中へ。その透き通る声は、静まりかえる裏通りにこだまし、〈ソノラ〉は今日も騒がしく閉店を迎える。
人が溢れかえるこの街で、そこはとても小さく目立たない。
従業員はその家の姉弟を含めて三人の、気分次第で開閉する一軒の花屋。
それでも花を受け取った人は皆、入店前よりちょっぴり笑顔。
その花屋で提供するもの。それは、色彩豊かな『優しい時間』。




