どんなに澄んだ水も、いつかは濁るんだって。
大雨が窓を打つ音は、夏のセミの声に似ている。
朝日が差し込む、濡れる窓を眺めながら、固く握っていたペンを置いた。
薄っすら手のひらに汗が浮かんでいる。紙が湿ってゆがんでいた。
もう取り戻せないシャーロックホームズ少女との、多彩な日常がつづられた僕の本。題名が思いつかなかったから、とりあえずは自分の名前である樹宇渚にしている僕の物語。
僕は、少女とわかれてからヴァンパイアハンターになった。だから、僕は吸血鬼を殺す。その為に生きる、ただの人間。
変に緊張していた指先から、力を抜く。
ペンの横で丸まって寝ていた白い子兎、七瀬が、起きて手足を伸ばす。
膝に降りてきて、僕を見上げる。冬毛の長い耳を揺らして、その純度の濃い赤い目を合わせてくる。
軽く頭をなでると、耳を垂らして笑った。
ノートを閉じて、僕は立ち上がった。リュックに、ペンと一緒にそれも入れる。
刻々と、乾いた時計の針が軽く音を鳴らす。
机の正面の窓から、濡れた朝日が差し込む。
少し先を、七瀬が弾む。
そのまま、ドアの隙間から出ていった。
▽ 第一章
「今日はフランスに行こうか」
ちょっとそこのコンビニまで一緒に行かない?とでも言う様な軽い口調で切り出す左兎。僕の安らぎを悪びれもせず奪い取る一言。
「そういうことに僕を巻き込まないでほしいですね。言葉も通じないですし、そもそも————」
それからも続けた僕の足掻きも虚しく終わり、僕はフランスへ行くことになった。
▽ フランス 水鏡に映る光城
心なしかいつもよりも高く見える空しい空。神秘的な、水面に映る巨大な光る城。
「ここは有名な観光地、モンサンミッシェル。中央には有名な修道院がある。地上から大天使ミカエルの像までは150メートルもあるらしい」
振り返って話す左兎。
左兎の肩で、左兎のペットの白兎、七瀬の長い耳が揺れる。
「増改築が繰り返されてきたモンサンミッシェルには、いろんな時代の建築様式がみられるところが好きなんだ。特に、最上層部にある教会には、15世紀くらいの様式がまだ残ってるんだよ」
幼い子供の様にはしゃぐ左兎は、とても楽しそうだった。
「あとね?ここには面白い話があるんだ。名前は忘れたんだけど、708年、近隣のアヴランシュの司教だった人の夢にミカエルが出てきて、岩山に聖堂を建てろって言ったんだって?でも司教は信じずに全然動かなかったんだ。三回も夢に出たのに言うことを聞かない司教にイラッとして、夢の中で司教のおでこに指を当てて強く言ったんだって。目覚めると、ミカエルに触られた部分に穴が開いていて、やっということを聞いて建てたんだって」
普段と違う空気に、左兎も少し浮かれているようだった。
いつも冷静な左兎には、シャーロックホームズのあだ名がつくほどに物事を見極める。当然、テンションは低いし冷たいイメージがあるから、楽しそうに笑う左兎は珍しい。
「よく知ってますね」
そう言って、またモンサンミッシェルに目を移した。
フランスに着いた時よりも少し暗くなった景色を、忘れないように、目に焼き付けておこうと出来るだけ注意深く見た。
「もう行くよ」
少し先で振り返る左兎。
目に焼き付けておけよ、と言ったのは左兎の方なのに、そんな時間はくれない。
仕方なく僕は小走りで追いかける。
少し人は減ってきたものの、周りの人の背は高く、左兎が埋もれてしまいそうで怖い。
ただでさえ左兎はいつもふらっとしていて直ぐに何処かに行ってしまうのに、普段よりも上機嫌な左兎は、本当に何処かに行ってしまいそうで怖い。
「そんなに速く行かないでください。迷ったらどうするつもりですか?」
少し戸惑ったような顔をする左兎。
「人間が何処に居るのかは常に把握するようにしているから迷うことはないと思けど……そんなに一人が怖いの?」
本気で心配している様な顔の裏面に、バカにするように薄笑いを浮かべる左兎の顔が一瞬見える。
「左兎が迷いそうで怖かったから言ったんですよ。僕が迷うとは思えませんし?」
左兎と七瀬の横に、並んで歩く。
「私が?そうか、人間には私がそんな風に見えてたのか。へえー?そうなんだー」
何でも客観的に、冷静に物事を見て進められる左兎には、少し冷血な雰囲気があることに最近気が付いた。
「まあ私が迷うことはないから、心配ないよ」
「すごい自信ですね」
どこか胸を張っているような、誇らしそうな左兎。
「ま、一度通ったことのある道限定だから、このフランスでは迷うかもだけどね!」
可愛らしく、上手にウインクする。
そんないつもどおりの会話をしながら、プラプラとモンサンミッシェルの対岸を歩いていた時。
「遅れました。すいません」
流暢な日本語で話しかけて来る、若い青年。
「じゃあ、行きましょうか」
後ろを向いて、歩き出す。
素直についていく左兎。
「どこに向かっているんですか?」
小声で左兎に問う。
「ああ、言ってなかったけ……」
また、あの悪魔の微笑みのような意地の悪い笑みを浮かべて、楽しそうに言った。
「十八世紀パリの、テュイルリー宮殿だよ」
左兎は、誕生日プレゼントの包装紙を破らないように丁寧にはがしていく、幼い子供の様だった。
そして屈託のない笑みを浮かべ、面白そうに言った。
「楽しみだね」
▽ きっとそれは、退屈で平穏な日々を吹き飛ばしてくれる
暫く歩くと、近くに山が見えてきた。綺麗に紅葉した、紅い山。三十メートルくらいまで育った巨木、モミジバフウが生えている。
青年に連れてこられた山の麓には、頂上まで続く坂があった。結構きつめな坂で、植物が生い茂っている。そこには、獣道のような細い屋根付きの遊歩道があった。
青年は、遊歩道を指差す。
「今からここを上ります。虫が多く坂もきついので、気を付けてください」
いざ入ってみると、想像していたよりも坂がきつくて、虫が多かった。
一定の速さで上っていく二人。耳を揺らして楽しそうに弾む七瀬。
僕は必死でついていく。
「ここです。着きました」
周りの木々がなくなって、急に明るくなった。
天然芝の敷かれた、広い平地。その中心に建っていたのは、典型的な宮殿、という感じの豪華な宮殿だった。
窓のようなデザインが数えきれないほどあり、宮殿は先が見えないほど遠くまで続いている。
そして、一際目を引く、少し遠くに建てられた歪で巨大な塔。空を切り裂くように建っている。
今まで見てきた建物で、宮殿や塔は一番大きい建物だった。
「既に参加者は揃っていますので、ご案内しますね」
そう言って、また先頭を歩き出す青年。
「参加者って、どういうことですか?」
左兎に訊いたつもりだったが、応えたのは青年だった。
「そういうことについては、参加者たちを集めて説明致しますので、少しお待ちくださいね」
初め会った時よりも、少し角が取れたような緩んだ話し方と表情で、青年は言った。
そんな青年とは違って、遠くを見つめるような目で塔を見ている左兎。
そんな左兎の表情を見ていると、僕も喋る気になれなくて、何となく黙る。
そのまま青年に連れられて、豪華な入り口から宮殿に入る。中は典型的な宮殿、という感じの広いロビーになっていて、奥の方に大きい階段がある。その隣に、かなりの間隔をあけて大きいドアが並んでいる。
「参加者は奥の部屋で待っていますので、先に行っていてください」
青年は、並んでいるドアのうち、一番端の部屋を指差して言った。
「俺は準備がありますので、できたら行きます」
「わかりました」
そう応えて、左兎を見る。
「ほら、そんなボケっとしないでください。突っ立ってないで行きましょうよ」
左兎の肩から七瀬が降りてきて、すっぽりとその手に収まる。七瀬は少女に寄り添うに手を一度舐めて、ぶるっと耳を揺らす。
二人は、慰め合って寄り添っているように見える。
「どうかした?」
顔を上げた左兎が、いつも道理の顔で見上げる。
「いえ。行きましょう」
今までも、左兎はこの兎と二人きりで助け合って生きてきたと思うと、複雑になる。
「楽しみだね。これから何が始まるのかな?」
明るく話す左兎。
「そうですね!とても楽しみです」
僕も明るく答えて、ドアに向かう。
一歩踏むごとに、大理石の床に一人分の足音が響く。左兎はいつもの癖だそうで、足音を立てない。だから、はじめは、ちゃんとついてきているか心配になることもあった。でも、振り返ると普通にちゃんとついてきているのでいつの間にか信じるようになり、僕は左兎を視界に入れないといけないと思う癖が取れた。
隣を歩く左兎が軽くノックして、ドアを開ける。
入った部屋はとても豪華だった。ソファーが部屋を囲むように並んでいて、真ん中には花が置かれたテーブルが置かれている。
「こんにちは。よろしくお願いします」
部屋には、僕と同い年くらいの人たちが四人、揃っていた。
「お願いします」
僕と左兎が交互に挨拶をする。
「ああ、こちらこそ、よろしく。って言っても、まだ何も知らないんだけどな」
ドアの一番近いソファーに座っていた、十四歳か十五歳くらいの少年が言った。
「よろしくね」
その少し奥に、浅く腰掛ける可愛い服のショートカットの少女。
「よろしく」
「お願いします」
反対側のソファーに並んで座っている、少年二人。
そんな、いかにも初対面どうしがする定番の挨拶みたいな会話を軽くして、僕と左兎がソファーに座った時。
「お待たせいたしました~!」
ノックもされずに急に開いたドアを見て、驚く参加者たち。
入ってきたのは、完璧にスーツを着こなした、僕らをここに連れてきた青年だった。
「まずは自己紹介だね。皆さん、絶対まだ名前すら言ってないでしょ?」
ハイテンションの青年。
「じゃあ、まずは俺から。俺の名前はエル。ゲームマスターです!」
幼い子供みたいに、はしゃいで言う。
「順番に名乗ってもらってもいいかな」
そうして、みんな順番に名乗っていった。
初めに話した、一番ドアに近い少年が、如月蓮。
奥に座っていた少女が、界雫庵。
二人並んで座っていた少年たちが、望月時雨と、裏々幾夜。
そして、僕、樹宇渚。
そして、白菊左兎と、白兎、七瀬。
「おー、漢字がむずくてわかんないや。漢字ってむずいね」
そう言ったエルはちょっと悲しそうだった。
「下の名前で呼んでも、いいかな……?」
頷く参加者たち。
「ありがとう。みんなも、そんな感じでね」
そこでエルは一息ついた。
さっきまでとは違い、スーツに似合うまじめな顔をして話し始めた。
「最初に言っていた通り、本題に入ります。ここでは皆さんに、鬼ごっこをしてもらいます。ただ、普通のものではなく、この宮殿を最大に活用した鬼ごっこです。まず、人間側と鬼に分かれてもらいます。人間は、鬼が誰だかわかりません。ので、言い当ててもらいます。ですが、もし鬼だと言い当てた人がそうでなかった場合、ゲームマスターからペナルティを受けてもらいます。そして、鬼側。最初鬼は一人ですが、どんどん増やしてもらいます。ですが、鬼は人間側に鬼だとバレないように、仲間を増やしてください。いったら、人狼ゲームと一緒ですね。それでは、何か質問はありませんか?」
真面目な言葉になったエル。
そして、レンが手を挙げて言った。
「ペナルティって、なんですか?」
「ノーコメントです」
即座に応えるエル。
この堂々としたままのエルには、大半の質問に同じ言葉で応えそうな雰囲気があった。
「このゲームをする期間はどれくらいですか?」
「それは、あなた達参加者であるプレイヤーによって決まりますので、現段階ではノーコメントです」
それからも、いくつかの質問があった。
安全の確保、食料、睡眠の保証、夜中なども含めて一日中ゲームは続くのか、期間中の個人部屋はあるのか、など。
ちなみに、安全、食料、睡眠の保証はある。夜九時から朝七時まではゲーム時間外。個人部屋はある。
そういう質問を重ねるごとに、内容は少し深いものになっていった。
具体的に鬼ごっことは何か、どう鬼にさせられるのか、宮殿から出て逃げられる範囲。その全てに、エルは一言で返した。「ノーコメント。」
全ての質問が終わると、エルの表情が緩んだ。
「じゃあ、君たちの部屋を紹介するよ。ついてきてくれるかな」
とけた言葉に変わったエルは、部屋を出て行こうとする。
僕らは、ぞろぞろとエルを追って部屋を出た。