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――― さわさわさわ さわさわさわ
草の葉が風に煽られて擦れあう微かな音が耳に心地いい。
ごろりと転がると眩しくて思わず目を瞑る。背中に草の先端がちくちくと刺さることだけは頂けないが、強い緑の匂いに包まれて大地の息吹を感じ、どうしようもなく心が安らいだ。
――― さくっ さくっ
『!!』
草をかき分ける足音に気付くと、くふふと小さく笑って腹ばいの体勢に移った。一メートルにも満たない身長では簡単に草の狭間に埋もれられる。
どんどん近づいてくる足音の方向へ匍匐前進で進むと息を顰め、一瞬の後に飛び上がった。
『ばぁっ!!!!』
目の前の景色が一気にひらけて、それから草原に佇む男の子の顔で視界がいっぱいになる。鼻先が触れ合うほどの距離まで近づいたのだから当然だ。
自分では精一杯の高さまで飛び上がって史上最大の驚きを与えたつもりだったのに、ターゲットはぴくりとも驚いた素振りを見せなかった。
『お父様が探していますよ。早く戻りましょう』
『・・・つまんない、何で驚かないの』
『草の間からそのピンクのスカートが見えていました』
それはつまり、頭隠して尻隠さずという事か。
カッと頬に熱が集まったあと、一気に機嫌が急降下して地団太を踏んだ。
『いやだ!!まだ戻んない!!』
草の上に座り込んで万物断固拒否モードへ移行したわたしを見て、男の子は首を傾げて見せた。
『どうしてですか?』
『どうしても!!!』
年下のくせに、わたしよりもずっと大人びていて幼子に言い聞かせるように諭してくるこの男の子に無性に腹が立った。何を言われても否、しか返さない。
どうにもこうにもわたしの頑なな姿勢を崩せないと悟ったのだろう。男の子は質問の仕方を変えた。
『どうしたら一緒に戻ってくれますか?』
『え・・・?うーん・・・』
想定外の質問だったから、つい真面目に考えてしまった。
『じゃあ、わたしを引っ張ってって』
座り込んだ姿勢のまま両手を男の子のほうへ突き出して強請る。
一旦真面目に考え込んだことで断固拒否モードは解除されたものの、男の子に諭されるまま素直に戻るのは癪だった。
『わかりました』
冷やっとした手がわたしの手首を掴む。年下とは思えない強い力でぐいと引っ張られるので驚いたが、父が偶にしてくれるスイング遊びみたいな勢いがあったので楽しくて堪らずきゃっきゃと笑った。
その様子に気をよくしたのか、わたしの手首を掴んだまま男の子は草原を後ろ向きに走り抜ける。
父の前まで来たときには、さっきまでの意固地はどこかへ行き、面白くって笑い転げていた。
父の険しい顔を見るまでは。
『どうしたんだ、これは!!何があったか説明しなさい!!!』
男の子と二人、父のあまりの剣幕にきょとんとする。
父はわたしの手首をそっと持ち上げると折れているかもしれないと言った。
そこで初めて、さっきの引っ張りごっこは悪い事だったのかもしれないと思い至り、急に涙がせり上がって来て上手く喋られなくなった。何ともなかったはずの両手首が、急にじくじくと痛み始める。
嗚咽を漏らして弁明すらできないわたしの前に立った男の子が、僕が手首を掴んで引っ張ったのですと打ち明ける。すると父が鬼のような形相で男の子を睨みつけたので力の限り声を張り上げた。
(だめ、違うの)
『お父さん、その子を怒らないで!わたしが引っ張ってって言ったんだから!!』
(お父さん、わたしが悪いの。彼は悪くない。彼は―――彼は――――)
「お父さん・・・!!!」
ハッと目を覚ました時、一瞬自分のいる場所も時間もわからなくて混乱した。
周囲の調度品と窓の外の景色から、やっと自分の置かれた状況を思い出す。
生温かい液体が顔面を伝うのは、久しぶりに会った父に対する懐かしさからか、謂れのない罪を被った男の子に対する申し訳なさからか。
夢の内容が現実に起きたこととは限らないが、薄っすらと同じ内容の思い出が蘇る。男の子の顔は靄がかかったように全く思い出せないが、父のあの鬼の形相は深く記憶に残っていた。
確かに昔、夢のような出来事があったのだ。
(いつの、何の記憶なんだっけ)
窓の外は緑と光に溢れているのに、喉奥に引っかかった魚の小骨のようなもやもやとした気持ちが胸に閊えてすっきりしない朝を迎えた。
*
「いいですね、楽しみがある方は」
「・・・」
「今日も夕食後に逢瀬ですか」
「・・・・・・」
「私がどれだけの熟慮の末にあのタブレットを渡したか、本当にわかってるんですかね」
「・・・・・・・・・わかってる、悪かったよアルジズ」
ユルが何と言おうと譲れないものがある。
彼女を実験体として扱うなど到底許容できるものではないし、その必要もないと最初からわかっていた。だからアルジズが渡したという機器を見た時、怒りで震えたのは偽らざる真実だ。
その思惑は概ね理解できはしたが、彼女に関しては昔から理屈とは別の思考が働くのでどうにも制御できなかった。
「ユルは研究の要、頭脳の中心だ。あまり機嫌を損ねられても困る。苦肉の策として、毒にも薬にもならない程度の餌を用意しようとしたんだろう」
自分がアルジズの立場だったなら同じことをした可能性が高い。
「わかっていただけて光栄です。それで、殿下のほうの思惑は何です?どうして殿下自ら彼女の健康状態を確認する必要があるのですか」
必要が有るか無いかと問われれば無い。そもそもユルも、アルジズすらも知らない事だが、人間の情報自体得る必要はないのだ。
しかし隅々まで観察してもよいと彼女が言った時、いや、そう言いながら腕に触れてきた時にそういった理は全て吹き飛んだ。そう表現するのが正しいかは議論の余地はあるが、兎に角後頭部を殴られたような衝撃を受け胸の奥がざわついて、それから彼女の体に触れられるという事以外思考から抜け落ちてしまった。
一応自身の中で大義名分があったことも、この奇妙な行動を後押しすることになった。
(あの時の手首の骨折がきちんと治癒したのか、ずっと気になっていた)
骨が歪んだりしていないか、痛みは残っていないか、執拗に撫でて確認していたのでさぞや彼女は訝しんだだろう。
あの時よりも彼女の体はもっとずっと柔らかくなっていて、相変わらず温かくて、どこか甘い香りがした。
昨日の一度だけで終わらせるにはあまりにも惜しく、気付けば定期の観察が必要だと口走っていたのも仕方のない事だ。
浮かれていると自覚はしている。付き合いの長いアルジズがそれに気づかないはずがない。
ふうと溜息を吐いて、はっきりと釘を刺された。
「全てにおいて最終的な決定権は殿下にあるのですから、お決めになった事に口を挟む気はありません。ただし、以前にもお伝えした通り彼女に深入りしてはなりませんよ」
「・・・わかってるよ」
明らかに疑わしそうな半眼でこちらを見るアルジズの視線から逃れるように窓の外へ目を遣れば、庭の端の方で楽しそうにしている彼女の姿が目に入る。
すると今夜の約束に思考が飛び、続くアルジズの小言も全く耳に入らなくなった。