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心地よい草のさざめきを遠くに聞きながら地面だけを見つめていたら、とんとんと労るように肩を撫でられた。
彼女が持ち得る腕力からすれば相当に加減してくれているはずなので怒られはしないだろうと恐る恐る顔を上げると、スリサズが少し前のわたしのような恰好で小屋を覗き込んでいる。
「やはりこの場所に呼ばれるんだな」
(やはり?)
わたしには縁もゆかりもない場所のはずなのに、来て当然といった言い方が気になった。
それに、ここの長なのだから小屋を含めて存在を知っているだろうに、きょろきょろと物珍しそうに小屋の内部を眺めているのも合点がいかない。
「ここには人間が住んでいたんですね?」
シンプルなわたしの問いに、スリサズは五つの顎をぎゅっと閉じた。尾が左右に一往復だけゆるりと振れる。
「いいや」
思わず困った顔をしてしまう。
どう見ても人間用の設備を見て否定するものだから、揶揄われているのだと思った。彼らの中ではスリサズが一番考えを読み取れないが、深い関りがないから知らないだけで冗談が好きなのかも。
「人間じゃない。女神様が住んでいた」
神聖な場所だから内部を伺い見たのは初めてだ、と続いた言葉にもっと困った顔になる。
これも冗談の続きか、それとも神話のようなものか。
――― ざり
厚い外皮に覆われた顔が、持ち上げられたわたしの手の甲に押し当てられる。何度かこの状態でお祈りのようなことをされたのですっかり慣れたものだが、今ここで始めなくてもとは思った。
彼女はこの儀式が相当気に入っているようだ。
お祈りが終わってもわたしの手の甲を持ったまま、ぽつりぽつりと話してくれる。
「いつもこの小屋の扉から女神様が顔を出すんだ」
一言話す度に、吐息が手の甲を撫でていくのでくすぐったい。
「私に気づくといつも軽やかに駆け寄って来てくれた」
彼女は自身が体験したことを話してくれているのか。
神話ではないのだとすれば彼らが信仰する女神は実在することになるが―――
(神様って走る?)
えらく純朴な神様だという印象を受けた。
「美しい方だった」
こちらをじっと見る漆黒の瞳は、わたしを通して遠くを見るように細められている。
「女神様とは仲良しだったんですか?」
走り寄って来るぐらいだから、そうに違いないと思いつつ尋ねた。
顔面の硬質な外皮はぴくりとも動かないが、ふふふという密やかな吐息が聞こえたので肯定ととってもいいのだろう。
「見れば見るほどよく似ている」
大きくてごろごろした四本指の手がわたしの頬を摩る。
それはそうだろう。彼らの女神様はそもそも人間の姿形にそっくりなのだから、どの人間を見たって同じ感想を持つはずだ。
わたしの考えを読んだのか、しかしスリサズは頭を左右に振った。違うのだと。
顔面に備えるパーツの造形、配置、大きさ、どれをとっても差異は僅かだと言うが、わたしにとっては他人の空似でしかない。
「だから貴女が小屋の前に立っているのを見た時、女神様が戻って来られたんだと思った」
戻って、と言ったから今はもう居ないということか。
「女神様はどこへ行っちゃったんですか?」
スリサズは細めていた目をついに完全に閉じた。
表情という機能を持たないはずなのに、不思議とひどく悲しそうに見える。
「・・・わからない」
出て行ったのか、連れて行かれたのか。それとも神様だから目に見えなくなってしまったのか。
ただならぬ絆があったようだから、きっと彼女が探さなかったはずはない。それでも多くは語らないところを見ると如何ともし難い事情があったのかもしれない。
宗教上の信心という言葉では収まらない思いを感じて掛ける言葉が見つからなかった。
もう一度手の甲に硬い顔面が押し付けられる。
「今後はきちんと私がお仕えする。誰にも何も言わせないし、心煩わすような事は絶対に起きないから安心してくれ」
まるでわたしが女神様かのような言葉。恭しく再開されたお祈りを聞きながら首を傾げた。
(今後は?ずっとってこと?)
神殿に来た時、白の宮殿での生活は一時的なものだと聞いていたのに。
思い出されるのはここへ来る直前のリュウとの会話だ。
『あなたは捕虜なのですから』
丁重に接してもらっても所詮捕虜。弁えた行動をしろ、相応の扱いを受けろと暗に言われているようでこの言葉を聞くといつも気持ちが重くなる。
一時的というのも方便で、本当は神殿から、リュウから見捨てられたのかも。
(でも、わたしには何も言えない)
きっと仕方のないことだ。
知らず知らずのうちに下がっていた顔を無理に引き上げると、お祈りを終えたスリサズと目が合った。
「またこの小屋へ来てもいいですか?」
「渡り廊下の先のエリア全体が貴女のための箱庭だ。好きに過ごして構わない」
でも小屋内は長く使われていないから危険があるかもしれない、だから寝食は最初に案内された部屋で。
そう言われて改めてよく見てみると、確かに家具はしっかりしていてもシーツなどのリネンは手入れされていないようだ。洗濯がされていないのではなく酷い経年劣化が見て取れる。もしかしたら手で触れると簡単に破けてしまうかもしれない。
途端に小屋全体がうら寂しいものに見えてきて、どうしようもなく人恋しくなった。
いつもこんな時はリュウやエオー、神殿のみんなが寄り添ってくれたのにもう会えないのかと思うと心臓のあたりが痛くなる。
「女神様が戻ってきたら、わたしも友達になれますか?」
「・・・もちろん」
ここは生き物の気配が全くない。
だから寂しい。
せめて女神様が居てくれると嬉しい。
そう零すとスリサズがわたしの手をぎゅっと握った。
「私が居るんだ。そんなに寂しがる必要はないと思わないか?ここで過ごすうちに俗世の未練は断ち切れるさ」
聞き慣れない単語の意味を考えていると、ひょいと抱えあげられたのでスリサズの首に慌てて縋り付く。
今日はもう部屋へ戻るのだと知って一旦思考を切り替えた。
(わたしはこれからどうなっちゃうのかな・・・)
この先一生をスリサズと過ごすのだろうかと漠然と考えたが、それが自分にとって良い事なのか悪い事なのか。丁重に扱ってもらっているのは神殿と変わりないのだから、決して悪くはないのだろうけど無性にリュウ達に会いたくなってしまった。