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真っ白な部屋の端に立ったままきょろきょろと辺りを見回すわたしに声をかける者はいない。いつも過ごしていた神殿であれば、困っていると誰かしらが声を掛けてくれたのに。
どのくらい寝ていたのだろう。今朝はカプセルから出て周囲を見回してもスリサズの姿は見えなかった。わたしがこちらへ来た日から付きっ切りだったため仕事が溜まっているのかもしれない。
相変わらず周囲に生き物の気配はない。
光溢れた明るい場所にもかかわらず、どこか物寂しい空気が満ちていた。
「誰かいませんか」
勇気を出して張り上げた声は、青々とした庭の木々の間にこだまして消えていく。
居室の側面に備わった大きな縦長の窓の前に立つと音もなく窓の一部が開いて、まるで庭へといざなわれているようだ。
(出てもいいかな?)
神殿でも庭への出入りは自由だった。窓もロックされていないのだから、勝手に庭へ出たところで咎められないだろうと一歩踏み出す。ふかふかした短く柔らかい草が足の裏を優しく受け止めてくれた。
短い草のエリアは窓からほんの少しだけ。その先は背の高い木々が生い茂っていて奥のほうは見渡せない。
戻って来られなくなると大変だけど、奥深くまで行かなければ大丈夫。
小さな好奇心のままに木々の間を縫うように進む。葉と葉の間から漏れ差す光で、外から伺うよりもずっと明るい。
この星へ来る前だったら得体の知れない場所には近づかなかっただろう。
見守る者はなく、無知からくる危険な行動を諫めてくれる者もいない、ひとりぼっちの身では少しの冒険もできなかったから。自分自身を守るためには好奇心なんて持っていられなかった。
だけど今は―――
皮肉なことに故郷を離れて異形の生命体に囲まれて暮らす今、やっと安心して好奇心のまま行動することができた。
きっと何かあったら誰かが探しに来てくれる。危ない事をしそうになったら怒ってくれる。
ほんの少し。
ほんの少しだけ。
先に何があるのか、遠くからでも見られればと足を進めていくうちにひときわ明るい開けた場所が見えてきた。木々はなく、辺り一面に短い草が生えている。
草の葉が風に煽られて擦れあう微かな音が耳に心地良い。
(あれ?ここ、前にも来たことがあるような)
既視感を覚えたが、ここは白の宮殿の奥なのだから来た事があるはずない。
きっと地球のどこかと混同しているのだろう。父が健在の頃は出掛ける機会もあったし、学校にも通っていたのだから遠足で訪れた場所かもしれない。この星の環境は地球とよく似ている。
地球に生えている植物とどのような違いがあるのだろうか。草をもっとよく見よう屈んだ時、視界の端に奇妙な物を捉えた。
(ん?)
草原と木立の境目にこじんまりとした小屋が建っている。小さいからと言って粗末には感じないが、強烈な違和感がある。
そろりと近づいてみて原因がわかった。
この星の建造物には蜘蛛の巣のような奇妙な曲線で覆われているという特徴がある。わたしが知る限り例外は神殿くらいだったのに、目の前の小屋にもこの特徴は認められなかった。
彼らもの、というより人間の建造物に見える。
(なんでこんなものが・・・?)
小屋の高さや扉の幅を見ても人間用ではないか。筋肉質で全体的にがっしりと大きい彼らがあの扉を潜るには、身を屈めたうえで半身になる必要がありそうだ。
恐る恐るドアノブに手を伸ばし握ってみる。
押し開くタイプの簡素な扉は今日日地球でも滅多に見かけるものではない。
――― キィィィ
細い軋み音をたててゆっくりと扉が開いた。鍵はかかっていないようだ。
むっとする埃っぽい空気に晒されて咳き込む。
一旦扉の外で深呼吸すると改めて小屋の中を覗き込んだ。
広くはない小屋の中は一目で見渡せる。
外から見た印象と違わず、設えられた家具の種類も大きさも人間用にしか見えない。
でもそんな事よりもっと気になる部分があった。
「どうして・・・」
震える手でドアノブを握りしめる。
扉を開いて見えた景色は神殿で与えられているわたしの部屋と瓜二つだった。部屋の間取り、設えられた家具の配置、間隔、全て見慣れたものだ。
埃っぽい空気さえなければ自室に戻ってきたと錯覚してしまいそう。
朽ちないように手入れはされているものの古さは否めないこの小屋は、神殿にある部屋よりも前からあるのだろう。神殿のほうはこの小屋を模して造られたのではないか。
だとすると更なる疑問が湧いてくる。
この小屋は誰が、何のために使っていたのだろう。
わたしが来るよりもずっと前からあるように見える。人類と開戦するよりも前に人間がここで暮らしていたのではないか。
(でもそんな話、聞いたことない)
人類が彼らの存在を認識してからほどなく交戦状態に陥ったはずなのに、そんな時に彼らの星の中枢で人間が普通に暮らしていたなんて有り得るだろうか。
幽閉された身だったため、わたしだけが知らない情報があるかもしれない。
小屋の中に入ってみようか。
それとも一度元居た部屋へ戻り、スリサズに許可をもらってからのほうがよいか。
悩んだ末に戻ろうと後退った時、硬くてごつごつした何かに背中がぶつかった。
ハッとして後ろを振り返ると眩しいくらいの白一色に視界が染まる。
「あ・・・」
見下ろす漆黒の瞳と目が合うと、思わず俯いた。勝手に小屋を開けたことを怒られるかもしれないと思うと全身に力が入る。
彼女の尾はだらりと下がり、如何なる感情も伺えなかった。