32
できるだけ足音を立てないように歩きたいが、艶々の石材で造られた床の上ではどうしても音が響く。
何も悪い事はしていないのに、おっかなびっくり自室に滑り込んだ。
神殿に戻って来たと同時にお風呂に入れられたから、まだ髪の毛が半渇きなのが気になって自室の棚に置かれたタオルで乱雑に頭を包む。
(今日はよくわかんない日だった・・・)
万事丸く収まったから何も心配はいらない、とだけ言ってウルズはオセラを連れて帰ってしまったが、二人には部屋まで一緒に来てもらえばよかった。そわそわして落ち着かず、無性に誰かと喋りたい。
すっかり暗くなった部屋の中を進んで早めにベッドに入ろうとした時、危うく腰を抜かしそうになった。
「!?・・・いつから居たんですか?」
真っ黒な影がベッドの縁に腰掛けている。
すぐにそれが俯いたリュウだと気づいて近寄った。
(今日は早いな)
体調を診るために、絶対に就寝時間までに会うことになるとは思っていたが、まだその時間には早いのに。
そうっと隣に腰掛けて見上げると、黒曜石の瞳と目が合った。
どうしよう、神殿の外へ出てしまった事を謝るべきだろうか。
わたしの意思で神殿を出たわけではないし、それはリュウも神殿の皆も見ていて知っているはず。神殿に戻って来た際も誰からも咎められることはなかったし。
でもここで謝らないとオセラが怒られてしまうんだろうか、と悩んでいると、先にリュウが口を開いた。
「気に入っているんですか」
「え、何を?」
「ウルズの部下です」
目を瞬かせる。部下というのは、多分オセラの事だ。
気に入っている、という言い方は聞きようによっては傲慢にも聞こえるのが気になるが、オセラは間違いなく良い人だと思う。質問の意図がわからないながらも頷いた。
「どういう所が?」
「どういうって・・・優しいし・・・」
(あ!)
ここでしっかり褒めておけば彼は怒られなくて済むのではないか。だったらたくさん良いところを挙げなければ。
矢継ぎ早に、若干重複してもいいから思いつく限りの言葉で褒めちぎった。礼儀正しく接してくれること、どんな話も真剣に聞いてくれること、別れ際には必ず手を振って挨拶してくれること、言いづらい事があるとしっぽを丸めて困っている様子が可愛いこと。
最早褒めてるんだか怪しい内容も含めて、息をつく間もないほど列挙していると途中で大きな手に口を塞がれた。
「ぅむっ・・・?」
艶の消えた黒曜石がじっと見下ろす。
彼らの黒々とした瞳は本当に綺麗だと思っているが、何故かこの瞬間だけは背筋がぞくっとした。
「もう結構です」
わたしの口を塞ぐ右手はそのままに、左手が背に添えられてゆっくりと横たえられる。もう寝なさいといういつもの合図だと思ったのに。
――― ぐにっ
「うっ・・・」
リュウはいつも体調を診た後、寝る前に腕や足を柔らかく揉んでくれる。もちろん骨格や筋肉の調査の一環だと事だとわかっているが、マッサージみたいで心地よくて、そうされるととてもよく眠れた。
だけど今日は―――
「成る程、彼はあなたに良くしてくれるようですね」
でも、と囁く声が続ける。
「彼はこんなふうにしてくれないでしょう」
気持ちいいですか、と問われたがまだ口は塞がれたままだから答えようがない。
くぐもった声で呻くわたしには構わず、リュウはわたしの肉を圧し続ける。かろうじて息はできるものの、口は完全に塞がれている上に抑える手が大きいので鼻から息をするのにも支障になって息苦しい。
ううう、と大きめの声で訴えると、ハッとしたように手を退けてくれた。
「苦しかったですね、すみません」
何だかリュウの様子が変だ。
最初は、あれほどウルズと口論していたのだから未だ苛々しているのかと思ったが、口調はいつも通り穏やかで杞憂だと思った。だけどこんな早い時間に体調を診に来るのはおかしいし、言動も行動もどこかぎこちない。
(苛々しているとか、怒っているのと似てるけど少し違うような・・・)
この違和感を表現する言葉をまだ知らない。
「今日は頭を診ましょうか」
横たわったままリュウの顔を見上げると、五つの顎が苦し気にいつもより早く開閉している。
(もしかして様子がおかしいのは具合が悪いから?)
体調を診るのなんて明日でいいのに。わたしはどこにも行かないから無理しないでほしい。
そう思って覆い被さるように顔を覗き込むリュウの上体を押し上げようとしたのだけど。
――― ガシッ
人間の顔よりもずっと大きい手が右頭頂部の辺りをがっちりと掴んで固定した。
小さい頃に歯医者での治療を怖がっていたら、こんな感じで頭部をがっちりと抑えられてしまった事を思い出す。
リュウの右手がわたしの顔を這うように撫でて調べているようだ。鋭い爪をひっかけないよう、指の第一関節から第二関節にかけての背の部分を使って頬の肉をつついている。
「どうして人間の頬はこんなに柔らかいのでしょうね」
指の腹でそっと眼を押し広げられた。人間とは全く違う黒橡の肌が間近に迫って思わず身を引きそうになる。
「眼球は・・・ああ、なんて濁りの無い綺麗な白なんでしょう」
優しい口調なのに、どうして首筋がぞくぞくするのだろう。
「眉毛やまつ毛の部分だけ生える体毛が可愛いです。それからふわふわした髪の毛も」
(体毛が・・・可愛い?)
リュウの感性はよくわからないが、単に珍しいものをそう表現しているだけかもしれない。
次第に下の方へ調査対象が移る。
つつつ、と爪の先が傷をつけないようにゆっくりと唇をなぞった。
相変わらず艶の無い虚ろな黒曜石がわたしの唇を注視しているのを感じて、なんとなく唇を引き結ぶ。
そういえば彼らには唇に相当するものがない。顎の縁の奥からは鋭い歯のようなものが見え隠れしているが、縁そのものは柔らかくもなく、他の部分の外皮と全く同じように硬質に見える。
「人間は親愛の情を表すのに唇を使うと聞きます」
互いの唇を合わせるのだと。
「僕にも、してください」
地球は広い。ある程度親しければ気軽にそういう挨拶をする地域もあるが、わたしが育った文化圏では違う。交際している間柄ならまだしも、わたしとリュウの場合だったら唇を合わせたりしない、というのがわたしの認識する朧気な人間の常識だった。
困惑し、何と言っていいかわからずに黙る。
「残念ながら僕には唇がないですから、代わりに―――」
――― ぬる
五つの顎の奥から長い長い舌が出て来て、失礼かもしれないと思いつつ目が釘付けになった。
彼らの舌は初めて見るが、人間の舌と比べて長さが十倍以上ある。更に、太い舌の両脇に細い舌が別に存在しているようで、口内の奥にちらちら見えた。
似ているところも多いし最近は慣れもあったが、こう見るとやはり人間とは全く違う生命体なのだと改めて感じる。
太い方のそれが伸びてきて、わたしの唇をぬろっと撫でた。
「舌を出して」
伸びている太い舌を発音に使うのだろうと思ったのに、この状態で普通に喋れるということは細い方の舌でも発音に問題はないということか。
器用だなと思いながら人間とは異なる口内を凝視していると、頬をつつかれた。
「舌を出して・・・それともオセラでないと嫌ですか?」
優しく諭すような声なのに、有無を言わさず従わせるような響きがあって背筋がびくんと震えた。
反射的に首を横に振ると褒めるように頭を撫でられて、三度目の催促をされる。
「良い子だから、舌を出してください」
おずおずと差し出したわたしの舌にリュウの長い舌が絡められた。まるで枝に巻き付く蛇のようなそれは、擦るようにわたしの舌の上を移動する。その度に腰が抜けたように体に力が入らなくなって震えていると、宥めるようにリュウの大きな手が背を撫でた。
どれほどそうしていただろう。
溶けてしまうのではないかと思うほどに舌を絡めあったままで、激しく息が乱れていた。その上リュウが長すぎて余った舌を何度も食道の奥まで突っ込むので、喉が痙攣しているのがわかる。
親愛の印と言いながら人間の口内の造りを調べるように執拗に動くので、はたと気づいた。
(これも人間調査の一環だ)
ぐったりしてきたわたしの様子に気付いたのか、やっと黒橡色の頭部が離れてくれた。それに伴い、ずろろ、と喉の奥から舌が引き抜かれると、再度奇妙な感覚に襲われて体ががくがくと震える。
落ち着かせるように肩を抱いて優しくさすりながら、リュウは妙な事を言った。
「これは他の誰ともしてはいけない事です」
言われなくても進んで自分からはしないだろうが、つい気になって聞いてしまう。
「親愛の印なのに?オセラもウルズさんもベルカナさんも駄目ですか?」
「絶対に駄目です、僕とだけにしてください」
リュウの強い口調に気圧されてこくりと頷くと、頭を撫でられてそのままリュウのゴツゴツした太い腕に載せられた。
夜間寝るためだけに戻ってきていた頃と同じように今日もここで寝るのだと気づいて眉を下げる。リュウの体はかなり大きいので、人間用のベッドでは窮屈そうなのにわざわざここで寝なくても。
「・・・どうやら嵐の中を進む事になりそうです」
「え、どういう意味ですか?」
そっと頬を撫でられた。虚空を映していた黒曜石の瞳に少しだけ光が戻ってきて、星明りを反射している。
「いいえ、何でもありません。それより明日はあなたの手紙の件についてよく話さないといけないですから、今日はもう寝ましょう」
(最初に話した時は何も言われなかったのに・・・)
何を話すのか見当もつかなくて明日の事が気になって仕方がなく、その晩はなかなか寝付けなかった。