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神殿の奥、木漏れ日が揺れる庭の端。
くるくると両手首足首を回してから、左右の足を大きく開くと深くしゃがみ込んで筋を伸ばした。
(うん、絶好調)
不味いを通り越して無味無臭であるものの、毎日与えられる錠剤やゼリーなどの食事は栄養満点ではあるらしい。栄養失調手前だった体調は日に日に良くなって昔のように動けるようになってきた。風呂にだって毎日介助付きで放り込まれるので髪も肌も人生で一番ツヤツヤしているかもしれない。とは言え、見張り兼世話係の者達には髪も柔らかい肌もないのでわたしの扱い方に相当苦労しているのが見ていてわかる。迷惑を掛けたいわけではないので、できるだけ自分で済ますようにしていた。
皮肉なことに地球にいた頃よりも捕虜となってからの生活の方がずっと健康的かつ衛生的なのだから、人生とはわからないものだ。絶対にすぐ殺されると思いながらこの星に降り立ったあの日がもはや懐かしい。
「柔軟体操ですか?」
「あ・・・」
(また来た)
振り返ると微光沢を持つ長い黒マントが翻る様が目に入る。
大きな図体のくせして気配を消すのが上手く、いつも気づかないうちに背後に立たれるのでこの人が少し苦手だ。今日も急に声を掛けられて思わず飛び上がりそうになった。
「まあ、そんなところです」
故に少しだけ険のある言い方をしてしまうのが常なのだが、懲りずに毎日来るのだから偉い人というのは案外暇なのかもしれない。
しかし現在の安定した生活は間違いなく彼の庇護によるものだ。何故なのか理由を聞いてもはぐらかされてしまうが丁重に扱ってくれているのだから邪険にもできなくて、彼とは毎日他愛もない内容の会話をしている。
ちらりと木の上に目を遣った。
――― かさかさかさ
ごめんちょっと待っててと念じた内容が通じたのか、木上にいるそれはそわそわと忙しなく足を動かしたものの降りて来ようとする動きを止めた。
「昨日は庭の探検でしたが、今日もその続きを?」
はたと気づいた。
一応神殿とその庭においては自由に行動していいと言われているが、彼は毎日の何気ない会話からわたしの行動を監視しているのではないかと。
(別にやましい事はないし、いいけど)
口を開くのも面倒で頷きだけ返した。
客人のような丁重な扱いに忘れてしまいそうになるけど、わたしは捕虜だ。監視くらい文句は言わない。
「じゃあ今日は僕もご一緒していいですか?」
それは文句を言いたい。
ちらりと見上げた木の上で同じように固まった生物を見て、思わず眉間に皺が寄った。先約があるのだがそれを正直に言うのは色んな意味で憚られる。
押し黙ることで拒絶の意思を示したが伝わらず、素知らぬ顔で穏やかな声が催促してきた。
「では行きましょう。木上の彼も一緒に」
驚いて彼の顔を見返すと、少しだけ得意そうな気配が混じる声。
「この神殿内において僕が気付かない事などありません」
それは変声期にあたる年頃にふさわしい、ごく普通の少年の声だった。
――― もっしゃもっしゃもっしゃ
(気まずい)
中型犬ほどの大きさの蜘蛛がご飯、あまり直視したくはないが小動物、を食べている間手持ち無沙汰に足をぶらぶらさせる。いつもだったら待つのはわたしだけなので気まずさなんてないが、今日は彼も居る。何となく沈黙が居心地悪かった。
「そういえば」
最初の言葉を発した時点で、まだ話題を思いついていない。完全な見切り発車だ。
「・・・あなたのお名前は?」
頭をフル回転させて思いついた話題はよく考えれば今更聞くことではないのだけど、実際彼の名前は知らなかった。
人間社会においてもそうだが、地位が高いほど名前で呼ばれなくなるものだ。神殿での生活において、周囲にいる世話役や見張りの者達はわたしへ聞かせるべき内容については皆人間の言葉で話してくれるが、その中でも彼は名前で呼ばれない。主様や殿下と呼ばれるだけだった。
名前くらい即答できそうなものだが、わたしの前に立つ彼は首を傾げる。個人情報的な意味で部外者である捕虜などに教えられないという事だろうか。
マントの裾から少しだけ覗く尾の先が思案するようにゆらゆらと揺れた。
「人間には必ず名があるのでしたね。僕は神殿主、殿下、王の子、とだけ呼ばれます。それらは即ち僕のみを指すのですから名が無くとも不便はありません。ただ―――」
「ただ?」
「昔、一人だけ名がないと不便だと主張する者がいて、彼女が僕に秘密の名前を付けてくれました」
懐かしむように遠くを見て目を細める。
この星でしばらく過ごす中で知った事だが、彼らには表情がなくとも感情はあってその表現は意外に豊かだ。
「・・・知りたいですか?」
「秘密なんでしょう?」
別に教えてくれなくてもわたしの人生にはなんの支障もない。そう思って言い返すと、ゆらゆら揺れていた尾の先がばしんと軽い音を立てて地面を打った。
多分本当は聞いて欲しかったんだろう。
彼と会話していると極々偶に子供っぽい反応を返してくる時があるが、普段の紳士然とした穏やかでありながら真意が読み取りづらい態度よりもずっと親しみが持てる。
少しだけ彼の名前に興味が湧いた。
「待ってください、当ててみます」
腰掛けていた大きな石からぴょんと飛び降りると、彼の周囲を回り多方面から眺めて特徴を探す。
わたしだったらどんな名前を付けるだろう。
マントの上からでもわかる筋肉質な体、黒曜石のような瞳、長い爪、左右に揺れる尾。でも一番目を惹くのは―――
「リュウ」
見るだけでわかる硬質な皮膚はざらざらとした質感で、まだ幸せだった子供の頃に聞いた御伽噺の押し絵の龍にそっくりだ。長い尾も龍のようで、ちょっとだけかっこいいと思っていた。
(まあ有り得ないけど)
人間の、それも一部地域の文化的背景を持つ者でなければ思いつかない名だ。
名付けたという女性が人間である可能性自体がほぼゼロなのでどうせ外れているに違いない。正解を教えてもらおうと顔を覗き込めば、ふいと逸らされた。
「わたしが名付けるんだったら、リュウ、ですかね。それで正解は?」
「・・・・・・あなたがそう呼びたいのであれば構いません。急用を思い出したので、僕はこれで失礼します」
どうしてだろう、急に機嫌が悪くなった気がする。失礼な事を言ってしまったのだろうか。
あれほど感情豊かに揺れていた尾の先も、針金が入ったようにピンと伸びてもう何も読み取れない。
わたしが何か言う前に、さっと踵を返して神殿の方へ引き返す彼の背を見ながらほんの少しだけ寂寥感を覚えた。
「主様、何か変だったね」
八本ある足のうち、前方四本で口元をくしくしと拭いながら蜘蛛が振り向いて言う。この神殿へ移送された日に見掛けた蜘蛛だ。
「もうご飯はいいの?」
「うん、お腹いっぱい!」
見た目は蜘蛛だが、ここは地球ではないのでもちろん正確には蜘蛛ではないしその知能レベルは意外に高い。難なく人間の言葉でコミュニケーションを取れるほどだ。人間とはここ暫く戦争状態だったため、彼らも止むに止まれずその言語を学んだと聞く。学んだ結果使いこなせているのだから見た目に依らず頭が良いのだろう。
彼らはこの星を支配するリュウ、便宜上そう呼ぶことにする、の種族に太古から従属する種族のひとつだと言う。
「エオー、わたし失礼な事言っちゃってた?もしかしてリュウって単語はこの星の言葉だと悪い意味?」
「ううん、そんな言葉はないよ」
でもその単語を聞いてから機嫌が悪くなったのは間違いない気がする。
なんでだろうねえ、と頭部を傾けるその様は獲物を捕食する寸前の蜘蛛のようなおどろおどろしさがあるが、その実エオーはそういった迫力からはほど遠いということをわたしは知っていた。
(のん気っていうか鈍臭いっていうか)
神殿で世話をされるようになって二日目。
処刑されないどころか自由にしていいと言われ、困惑の末にふらふら庭を彷徨っている時に出会ったのがエオーだ。エオーの父はリュウの元で働いているそうだが、まだまだ幼体のエオーには仕事はない。父からの言いつけで庭にて食料兼獲物を捕らえる練習をしているのだが、その動きの悪い事悪い事。
はじめは初日に見かけた奇妙な生物への興味と暇潰しにその狩りを見学していたものの、あまりにも鈍臭過ぎて獲物に翻弄されるエオーを見ているとついに耐えきれなくなった。
『後ろから来るよ!その石と石の間に追い詰めて!』
長い幽閉生活で磨かれた動体視力と察知能力には自信があったので、むしろわたしが捕まえてやりたいくらいだったけどぐっと堪えてアドバイスに留める。
一瞬びくりと驚いたようだったエオーは、しかし基礎的な体力に問題はなかったのだろう。すぐに反応してついに獲物を捕らえることに成功した。
それから毎日庭に出て、いまいち要領の悪い彼のアドバイザーとしてお供している。狩り兼食事が終われば石に腰掛けて日向ぼっこをしながらお喋りする毎日。神殿内の他の者達とも会話はするが彼らとは事務的な会話がほとんどだったので、エオーとののん気でくだらない会話がすごく気に入っている。
今のところ捕虜とは思えない平和な生活だった。
「それよりさぁ、準備とかしなくていいの?」
「何の準備?」
「もうすぐ人間がいっぱい来るって父様が言ってたよ。わへーこーしょー?」
何の曇りもないエオーの目は、同種が来るなら嬉しくてもてなしたいだろうと信じて疑っていない。
(会いたくもない)
わたしの引き渡しは和平交渉の事前協議で行われた。まるで和平交渉に備えて事前に生贄を差し出した形だったので、今更その会議があるからといって関わりたくはない。
エオーには曖昧に返事をして、庭に生息する小動物の種類についての話題にすげ替えた。