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欲というものは、一度箍が外れると際限なく湧き出るものだ。
幼い頃に押し殺した想いを大事に仕舞い込んでいたら、腐って澱のように溶けたそれが限界を迎えて滾々と溢れ出てくる。
初めはもう一度会いたい、見守りたいという純粋な気持ちで彼女を望んだはずなのに、この想いはどう発散すればいいのだろう。
目を閉じればいつでも脳裏に彼女の姿が浮かぶ。
『怖がらないのですね』
『怖くないですからね』
いっその事怖がってくれれば諦めがついたかもしれないのに。
記憶は戻っていないはずだが、一方で今にも戻るのではないかと期待させるような反応が不意に返ってくると、否が応でも胸が高鳴った。
走り出したこの道はどこへ行き着くのだろう。無理やり捻じ曲げ、策を弄してまでどこへ向かおうとしているのだろう。自分自身判然としない。
手元に投影された情報を見下ろすと一旦目を閉じて、それから緩慢な動作で消した。
部屋の中で唯一の光源が失われたため真っ暗になるが、人間と違って夜目が利くため支障はない。ただし目も閉じていないのに、暗がりの中で彼女の幻影がちらつくようになった。
扉の向こうではアルジズがまだ働いているはずだ。彼の仕事は最大の山場を迎えていると言っても過言ではないから暫くこちらには来ないだろう。
視線は自然と扉と逆側、窓の方へ吸い寄せられた。
片が付くまではと律したはずなのに、ふらふらと窓に近づく。
幻影ではなくて本物が欲しい。
*
喉を鳴らしながら大きなコップに注がれた水を一気に飲むと、小さく息をついた。ドン、とベッドサイドテーブルにコップを置く。
何の変哲もないいつもの夜。
(・・・でもないか)
リュウが姿を見せなくなってから暫く経つ。認めたくはないが、これはいつもの状態ではないと感じる。
最初は苦手な類の人だと思っていたけれど、いないと落ち着かない。
不思議な事に、リュウに代わって体調を診る者は寄越されなかった。体調管理の名の下に人間の情報を得たいのだと思っていたが、暗い考えが頭を過ぎる。
(もう情報はいらないのかな)
金の切れ目が縁の切れ目、という言葉がある。
彼らは金品を得ているわけではないが、金という言葉を利益に置き換えるとしっくりきた。所詮は歪な関係なのだから、おかしな期待を掛ける方が間違っているということはわかっている。
「・・・寝よう」
照明を落とすと、寝転がって布団に包まった。
窓の外の星明りを数えても一向に眠気が来ない理由はわかっている。
『スリサズ様!!おやめください!!!』
頬をさすると昼間の出来事がまざまざと蘇る。
ごつごつした大きな手が伸びて来た時、打たれることを覚悟した。それどころかあの鋭い爪で顔面ごと切り裂かれるのだと思った。
(お願い、一思いに殺して)
だけど予想に反して何の危害も加えられなかった。ただわたしの頬を撫でて、ひたすら撫でて、ずっと撫でているので困惑する。まるでわたしの輪郭を確認するように何往復もしているので、人間が相当珍しかったのだろうか。
リュウに初めて会った時に切り裂かれると誤解した時の事を思い出して目を細めていると、指の腹でぐるんと喉も撫でられた。
見下ろす黒曜石のような瞳には決して温かな色は浮かんでいない。むしろ冷え冷えとしたものさえ感じるのに、手付きは意外と優しい。
困惑しているうちに周囲が慌てて彼女を連れて行ってしまったから、残る者達に尋ねてみた。
『今のは誰・・・?』
いつもは賑やかに色々と教えてくれるのに、誰も口を開かない―――と思ったら。
『僕知ってる!あれは次の白の長になったスリサズ様だよ。しかもただの長じゃないんだから!主様の番、つまり奥様になっ・・・むぐっ』
最後まで言い終える前に、エオーも皆に連れて行かれてしまったけど内容はほぼ理解できた。
(リュウは結婚したんだ)
人間の文化でも、そして恐らく彼らの文化でもおめでたい事のはずだ。
お祝いをするにはどうすればいいだろう、何か贈れるものはあっただろうか、そう思いながらすっかり人気のなくなった庭を後にして自室のベッドの上に寝転んだ。
そしてそのまま、今の今までベッドの上でただぼうっと過ごしていた。
(変な気持ち)
ざわざわ、そわそわ、じくじく、ちくちく。
思いつくまま心情を表現してみるがどれもしっくりこない。
「・・・よそう、考えるだけ無駄だってば」
「何を考えるのが無駄なんですか?」
悶々とした気持ちを振り払いたくて声を出したら、僅かな星明りも届かない室内の奥から返事が返ってきたので飛び起きた。
目を凝らしても何も見えないが、この声は。
暗がりの中から溶け出すように黒いマントがぬるりと進み出てきたのを見て、ほっと息をついたのも束の間。胸のつっかえを感じてそっと視線を外した。
「・・・びっくりしました。今帰って来たんですか?」
自分でもこの変な気持ちを持て余している。
みんなが居る、明るい昼間の庭だったらまた違った気持ちになれたかもしれないのに。
――― ギシッ
リュウは体格が良いから腰掛けただけでベッドが大きく軋む。
「ええ。また黒の宮殿へ戻らなければなりませんが、今夜はこちらで過ごします」
「そう、ですか」
寝るためだけに戻って来たということか。
(おめでとうって言う?)
でも何て切り出せばいいのかわからなくて、布団の上に置いた自分の手の甲を見つめた。
(・・・いいや、もう寝よ)
彼だって寝るためだけに戻ってきたのなら、こんなところで雑談している暇はないだろうし体調記録もないだろう。きっとすぐに出ていくはずだと思って布団に潜り込んだ。
「じゃあ、あの、おやすみなさい」
――― ミシッ
リュウが動いたのに合わせて、またベッドが軋む。
「今日も、しましょう」
「え?」
囁き声が聞こえたのと、布団の縁を掴んでいた手が引っ張られたのと同時だった。
「次はあなたが情報を得る番でしたよね」
引っ張られた手は優しく導かれて、リュウの膝の上に下ろされる。マントの生地越しにごつごつとした硬い肌を感じた。
今夜も体調記録を行う気でいるのだとわかって、何故かほっとした。まだ必要とされているとわかったからだろうか。
「触ってください」
わたしは彼らの情報を得る必要はないけど、公平性を保とうとする彼なりの気遣いを無下にはできない。
少しだけ指の腹に力を入れて彼の足を掴んだ。揉み解すとも言えないほどの非力さだ。彼らの皮膚の厚さからして刺激にもなっていないだろうが、ピクンと震えた気がして顔を覗き込むと。
――― ズッ
「わっ!?」
(重い!!)
みっちりと引き締まったリュウの上体が雪崩れこんできたので慌てて受け止めたが、もちろんわたしの力では止めきれなくて二人ともベッドに沈む。
「どうし・・・」
「少しだけ、ここで休ませてください」
(ああ、相当疲れてるんだな)
五つの顎が、わたしの頭のすぐ傍で小さく開閉している。
彼らも人間と同じように呼吸をするのだから当たり前の事なのに、リュウの存在がひどく生々しく感じられて唾を飲み込んだ。
「お願いです、まだ触っていて」
懇願するような声と共に、一度離れていた手がもう一度掴まれてリュウの腰のあたりに導かれる。
マントがはだけて、その下に着ている簡素な造りのワンピースのような白い服が覗いていた。彼らのしきたりとしてマントの色で所属や階級がわかるようになっているが、その下に着るものには頓着がないようで皆似たようなものを身に着けている。そういえば古代の人間が着ていたものにも少し似ているかもしれない。
頓着がないとはいえ人前ではあまり晒さないようだが、本人は全く気にしていなかった。
言われるがままに腰のあたりをぽんぽんとあやすように撫でていると、低く唸るような声。
不快だっただろうかと手を離しかけると、もっと、と言うので仕方なく続ける。
(なんか、もう情報を得る云々じゃない気がするけど)
いや、そんなことよりもどう切り出そう。
何度も何度も口を開きかけて、結局"おめでとう"は言えなかった。